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エラスムス『痴愚神礼賛』(9)

2月22日(木)雨、午後になってやんだようである。

〔これまでのあらまし〕
 鈴野房の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をした痴愚の女神が、世の中を明るくし、人々も神々もいつまでも若く保つのは自分に他ならないと自賛の演説をします。人生も、国家も、学芸も痴愚が支配している、痴愚であることこそ人間を幸福にするのであり、阿呆は実際に賢者よりも幸福に暮らしているではないかといいます。

〔36〕
 阿呆たちは、道化として王侯に仕え、その寵愛を受けていると女神は言います。沓掛さんも注で触れているように、これは当時の宮廷でよく見られたことのようで、シェイクスピエアの『リア王』にも道化が登場するのはご存知だと思います。賢者がずけずけと本当のことを言っても、王侯は痛い耳を貸そうとはしません。「それにひきかえ阿呆たちは、王侯たちがどこであれ、あらゆる手を尽くして求めているもの、つまりは軽口、微笑、呵々大笑、気晴らしといったものを提供してくれますからね。この連中だけが素朴で本当のことを口にしているのだという、おろそかにはできぬ、阿呆ならではの才覚もお認めいただきたいところです。」(92ページ)

 真実は極めて大事なことであると女神は言います。プラトンの対話編である『饗宴』に登場するアルキビアデスは、「真実が語られるのは酒と子供の口によってである」(同上)という諺を引用していますが、この両者は痴愚の女神と深い関係にあるといいます。なお、沓掛さんの注によると、アルキビアデスが引いているのは「酒は子供抜きでも、子供を入れても真実のことを語るもの」(264ページ)という諺だそうです。それでエラスムスは痴愚の女神に間違った引用をさせて、暗にその無知をからかっているのかとも思われますが、ベティ・ラディスの英訳についているA.H.T.リーヴァイの注によると、エラスムスがイタリアの人文主義者であるフィチーノの翻訳をそのまま使ったために、誤訳が訂正されていないのだそうです。

 「真実というものは、人を傷つけないかぎり、本来聞く者の心を喜ばせる力を秘めているということですね。ですが神々は、阿呆たちにのみ、それをなさしめることにしたのです。」(93‐94ページ)と女神は言います。これは王侯たちに自分の進言を聞き入れてもらえなかった賢人エラスムスの人間観察の結果の発言でしょうか。

〔37〕
 さらに阿呆たちは生前も死後も幸福であり続けると女神は言います。「この人たちは死を恐れることもなく、それを感じもせずに、大いに楽しくその一生を送ったのち、ただちに福者の楽土(エリュシオン)へと居を移して、その地で、敬虔にして閑雅な日々を過ごしている人たちの魂を、道化を演じて楽しませるのです」(94ページ)といいます。エリュシオンというのはギリシア神話に出てくる英雄や善人が死後を過ごす楽園で、痴愚の女神は異教の世界を語っていることになります。これに対して、「知の典型と目される人物」(95ページ)は一生必死に勉強して悲惨な生活を送るだけだと切り捨てます。

〔38〕
 ストア派の哲学者は、「愚のはなはだしきは狂気に近い」→「狂気ほど悲惨なものはない」(同上)という三段論法を持ち出して、痴愚を攻撃するかもしれないが、狂気には2種類あることに気づいていない議論であると女神は言います。一つは欲望や復讐心にかられた狂気であり、もう一つは痴愚・錯覚からくる狂気であるといいます。前者は確かに悲惨であるが、後者は決して悲惨なものではない、むしろ幸福なものだといいます〔いわゆる誇大妄想について言っているようです〕。

〔39〕
 こうした幸福な狂気の例として、女神は狩猟に夢中になっている貴族、建築熱に浮かされている人々、錬金術師などが挙げられています。〔女神は「幸福な」人々の例に含めていますが、客観的にみると、簡単に同意はできないはずです。〕 さらに賭博狂の場合は、ひょっとすると悲惨な狂気のほうに属するのかもしれないとも言います。二分法を持ち出しておいて、その二分法では理解不可能な事例を持ち出してしまったようです。

〔40〕
 次に突飛な話や迷信の類を安易に信じる人々も痴愚女神の同類の狂気に取りつかれた輩であるといいます。この連中は幽霊だの、お化けだの、亡霊だの、地獄だの、その他五万とある不思議なことについての奇怪至極なことに話が及ぶと、その馬鹿げた中身に飽くことがないのです。話に本当らしさがなければないほど、嬉々として耳を傾けて信じ込み、心地よくお耳をくすぐられるというわけです。こういった馬鹿話は、退屈な時間を凌ぐ時間つぶしに驚くほど役立つばかりではなく、懐を潤すという効用もあるのですよ、とりわけ坊主や説教師たちのね。ここには、民衆の無知に付け込んで、奇跡譚をでっちあげて彼らの信仰を勝ち取り、金を稼いでいる一部の僧侶たちの腐敗への批判が込められているようです。なお「幽霊だの、お化けだの、亡霊だの、地獄だの」というところ、英訳では”ghosts, spectres, phantoms, and the dead"となっています。

 さらに女神は当時一般的であった聖人への信仰というよりも迷信について言及しています。キリスト教は一神教のはずですが、聖母マリアへの信仰に加え、様々な聖人への崇拝が加わりました。そういう迷信の中には、キリスト教以前の異教の残りかすが混じっていることもエラスムスは見抜いていたようです。福音書にこそキリスト教の真理があると信じるエラスムスは聖人崇拝や、巡礼といったものに批判的で、この考えは、その後のラブレーにも受け継がれています。

 さらに教会の発行する贖宥符(いわゆる免罪符)を購入することで、罪が軽くなるという考えも批判されます。「犯した罪から、その実なんの効力もない赦免によって救われるというので悦に入り、水時計ででも測るかのように、数値の表を作って、煉獄にとどまる時間がいかほど短くなったかを、世紀、年、月、日、時間に至るまできちんと計っている人については、さあどう言ったらいいのでしょうね。」(104ページ) 沓掛さんの巻末の注を引用しますと:「煉獄」(purgatorium)とは死者の魂が、天国へ行くまでの間その罪に応じて一定期間を過ごす世界を言う。そのもっとも詳細な描写はダンテの『神曲』に見られる。煉獄の観念はもっぱらカトリックに存在するもので、ギリシア正教の態度はこれに関しては曖昧であり、プロテスタントはその存在を完全に否定している。」(268ページ) 本来のキリスト教は神の国がすぐにやってくるという終末論的な考えを抱いていたのですが、実際にはなかなかやってこないし、その間に罪と罰についての思索が深化し、教会が世俗の世界にしっかりと根を下ろしたために、「煉獄」という考えが生まれたのでしょう。このあたりについてはジャック・ル=ゴフの研究などを読んでみたいと思っています。なお、『神曲』を読み通した感想としては、『煉獄篇』に最も読みごたえを感じたことは否定できません。

 そして各地方、様々な職業に応じて守護聖人が信じられていることを馬鹿馬鹿しいといいます。聖母マリアへの信仰についても「この御母に、その御子が担っておられる以上の役目を押し付けております」(106ページ)と過度になることを批判しているのは、エラスムスの本心を代言したものと思われます(いつの間にか、痴愚女神の位置づけが変化しています)。

 教会の世俗世界への行き過ぎた干渉、腐敗・堕落に対するエラスムスの批判はなかなか鋭いものがありますが、痴愚女神による告発という紗がかけてあります。まもなく始まることによるルターらの宗教改革の進展の中で、エラスムスたちは新旧両教会の板挟みになります(一応カトリック教会にとどまるのですが、きわめて居心地の悪い状態になります)。
 多少飛躍した考えになりますが、近世の中国では功過格といって、一日一日にした善いことと悪いこととを点数化してその日の反省の材料にする書物が作られました。煉獄にいる時間を数えるのとは違いますが、変に細かいところがあるのは同じだと思います。
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