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小川剛生『兼好法師』(10)

2月21日(水)曇り、時々晴れ

第6章「破天荒な家集、晩年の妄執――歌壇の兼好」の続き
 兼好は頓阿・慶運・浄弁とともに、二条為世門下で頭角を現した地下出身の歌人として四天王に数えられた。そして初心の入門者たちに和歌の手ほどきをしていたのである。
 「四天王はいずれも叡山で学んだ経歴があり、出自も経歴も共通項のなかった4人というわけではない。」(178ページ) 小川さんは本文ではこれだけしか書いていないが、巻末の「年譜」を見ると、元応元年(1319)の項に「この頃、比叡山の横川・修学院に籠居か。徒然草の一部を執筆するとの説あり」(230ページ)と記されている。兼好は二条家の歌会に参加するのは遅かったが、おそらくは頓阿ら他の弟子たちを介して、為世に入門したものと考えられる。為世が撰者となり、元応2年(1320)に完成した『続千載集』には最も若年の慶運を除く3人が入集している。元亨3年(1323)には当時東宮であった邦良親王の御所の歌合せに歌を召される。さらに翌年の正中元年(1324)には二条家の「証本」をもって『古今集』を書写、さらに為世から『古今集』の説を教授されて、「奥書」をもらっている。ここで歌人としての免許を得たといってよい。

 「徒然草では醒めた、時にシニカルな批評さえよくする兼好であるが、歌道ではそのような素振りはなく、為世・為定への姿勢は恭順を極めた」(179ページ)と小川さんは言い、為定の官位の昇進を期待する歌や、為定の嫡子為貫との贈答歌を引用しながら、彼の二条家への忠誠と、古今集への造詣の深さを指摘している。

 兼好の家集は江戸時代初期に突如出現した自筆本が事実上の孤本である。これは清書以前の草稿本であり、そのため兼好の推敲の跡をたどることができる。285首と連歌2句を収める、比較的小規模な家集である。
 家集は撰集に対する語で、もっぱら個人の詠を集めた歌集である。ただ歌を集めたというだけでなく、何らかの編纂意識をもってまとめられたものである。この時代には、勅撰集に準じて四季・恋・雑の部立に分け、さらに同じ歌題ごとにまとめて排列するようになる。
 和歌四天王のうち、浄弁は家集を残していないが、他の3人は家集をまとめている。その中で頓阿の『草庵集』が量的にも10巻1440首と他を圧し、後世への影響も大きい。慶運は約300首である。この2人は歌を分類してまとめているが、これに比べると兼好はかなり変わった編纂ぶりを見せている。
  まず冒頭に「家集事」として、編纂方針が明記されている。その内容は「数を定めない、分類もjしない、ほぼすべての歌人が立春詠で始め出来映えにも気を配る巻頭歌にも意を払わない」(184‐185ページ)「いわば行き当たりばったり宣言」(184ページ)はかなり異色である。小川さんは、これは一つには平安時代の素朴な家集に戻ろうとする意識の表れとしつつ、次のようにも指摘する:「ところがこうした最低限の統一も取らず、明確な編纂の方針は何もないはずなのに、この家集を精読した人は、兼好の個性が一貫していることを感じ取り、排列上の変化の妙を述べることも事実である。これは徒然草の章段の配列方法とも重なるところである。方針は立てない、という宣言は実は逆説であって、周到な配慮のもと和歌が並べられているらしい。」(185ページ) この家集は貞和5年以後に成立したという説が最近は有力になってきているが、「家集の編纂一つをとってみても、和歌四天王の特色がよくあらわれ、ことに健康のユニークな個性が際立つ」(186ページ)という。

 四天王のうちでは浄弁が年長であり、康永3年(1344)を最後にその姿は見えない。残る3人は同世代であり、実際には行動を共にすることが多く、何かと比較されたようである。特に知られているのは、自らも優れた文化人であった関白二条良基(1320‐88)の加えた評価である。良基の邸では、貞和年間に為定を指導者に迎え歌会を開いていたが、頓・慶・兼の3人もそろって出席していた。(なお、良基の家柄は藤原道長の嫡子頼通の子孫の摂関家であり、為世・為定の家柄は道長の子長家の子孫であって、二条と称していても別系統である。) 
 最晩年の良基が歌論書『近来風躰(きんらいふうてい)』(元中5年・南朝嘉慶2年=1388)で述べているところを、小川さんは「頓阿は偏りのない完全無欠の名手、慶運は奇矯だが才気を感じさせる好敵手… この二人に比較すれば兼好がやや劣る」(187‐188ページ)とまとめている。〔歌人としては見劣りがしたかもしれないが、それを補って余りあるものを兼好が持っていたことを良基は見抜いていたであろうか。良基の生まれた元応2年(1320)は、兼好が初めて入集した勅撰集である『続千載集』が完成した年であり、両者の間に40年近い年齢差があったことが、両者の関係にどのように影響していたかは興味のある問題である。〕

 いかに名声があったとはいえ、最上級の貴族である摂関家の歌会に、得体のしれない地下出身の遁世者が出入りし、関白に親しく名を知られるというのは、それまでになかったことである(二条良基の研究家である小川さんが見逃すはずはないが、連歌の大家でもあった良基には「庶民的」な側面があったにせよ)。さらに文和元年(1352)8月、良基は私的に詠んだ百首歌(後普光園院殿御百首)をこの3人に合点させた。つまり、高い評価の作品を選ばせたのである。頓阿は68首(さらに添削評語をも付している)、慶運は72首とかなり甘いが、兼好は42首と辛かった。「これが現在のところ確認される兼好の最終事績となっている。」(188ページ)とのことである。〔次回に触れることになるが、兼好が冷泉為秀に近づいたという今川了俊の記述は、巻末の「年譜」によるとさらにこの後の時期のことである。つまり、それは確認できない事実ということらしい。〕

 関白の百首歌を合点したり添削したりすることは、歌道師範の家柄の当主である二条為定の仕事のはずであった。そうならなかったのは当時の政治事情のためである。この百首歌がまとめられた文和元年8月は、正平一統の破綻を受けて、後光厳天皇が践祚され、10か月ぶりに北朝が復活した月でもある。幕府の申し入れによって、良基はまず関白に復帰し、数々の困難を排して朝廷の再建に尽力したのであった。南朝への内通を疑われていた為定はこの事態に直面して謹慎せざるを得ず、しかも眼病を患って失明同然の状態となり、地下の門弟たちを頼らざるを得なかったのである。
 歌道師範の仕事を次第に地下出身の師範代格の門弟たちが奪っていくというのは一種の下克上であり、歌道の世界でもこのような現象が起きていたことを知るのは興味深いことである。

 「破天荒な家集 晩年の妄執」という章題の前半部分をやっと説明するところで紙数が尽きてしまった。兼好の「四代作者」へのこだわりを「妄執」と小川さんは論じているが、言い過ぎのような気がする。今回はあまり触れなかった二条派と京極派の対立の問題を含めて、次回は勅撰和歌集と歌壇の動きに目を向けながら、兼好の晩年の姿を追っていくつもりである。今回、取り上げた部分の感想としては、兼好の家集に『徒然草』と共通する作者の編纂上の意図を感じるというのは、実際に両者を読み比べてみないとわからない感想ではないだろうか。なお、この書物の巻末の「年譜」は示唆に富む一方で、本文とは違うように思われる内容を含んでいるので注意を要する。
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