FC2ブログ

『太平記』(198)

2月20日(火)晴れ、温暖

 建武3年(南朝延元元年、1336)、足利方によって花山院に幽閉されていた後醍醐帝は京都を脱出して吉野へ向かい、吉野金峰山寺に入った。楠正行以下の軍勢が吉野に参じたが、紀州根来の伝法院は、高野山との長年の確執から、宮方に味方しなかった。11月2日、帝の吉野臨幸の知らせが新田義貞の立てこもっている越前の金ヶ崎城にもたらされた。いったんは足利方につき、金ヶ崎城の包囲軍に加わっていた南越前の瓜生保は、宮方に心を寄せる弟たちと同心すべく、本拠地の杣山に帰り、脇屋義治(義助の子)を大将として挙兵した。23日、高師泰により杣山攻めに派遣された能登・加賀・越中3か国の兵は、瓜生の奇襲により敗退した。さらに瓜生は29日、金ヶ崎包囲から戻っていた越前守護斯波高経の新善光寺城を攻め落とした。

 明けて建武4年(南朝延元2年、1337)正月7日、新年の椀飯(おうばん=正月の祝宴の行事)を済ませて、11日には雪が降りやんで晴天が広がったので、義治は新田一族の里見伊賀守(名は不詳)を大将として5千余人の兵を金ケ崎城の後詰として敦賀に派遣した。ここで「~人」という表現をしているのは、積雪のため騎馬での進軍が難しかったためであろうと思われる。その軍勢は吹雪に出会った際の用意をして、鎧兜の上に蓑笠を着け、踏沓(ふぐつ=雪の上を歩くための藁沓)を履いた上にさらに橇(かんじき)を履いて、雪深い山の中を8里踏み分け、その日は葉原(敦賀市葉原)まで進んだ。
 杣山から後詰の兵が差し向けられるであろうことは、高師泰もかねてから予期していたことであり、敦賀の港から20町(2キロ強)ほど東に極めて好都合な要害(とりで)があったので、そこに今川駿河守頼貞を大将として2万余人を差し向けて、あちこちに楯を垣のように並べ、今か今かと敵襲を待ち構えていた。

 夜が明けたので、まず一番に(瓜生保とともに金ヶ崎城包囲から離脱して杣山に走った)宇都宮泰藤が紀氏と清原氏の流れをくむ300余人の武士たちを率いて足利方の先鋒と戦う。敵陣に至る坂の中途にいる足利方の千余人の武士たちを遠くの峰に追い上げて、そのまま二陣の敵に襲い掛かろうとしたが、両側の峰の上から矢を射かけられて、北の峰に退いた。
 宇都宮の率いる紀清両党の兵は、これまで何度も登場してきた歴戦の勇士たちで、足利方の兵が後退したのは正面衝突を避けてのことと思われる(足利方のほうが兵力は多いし、坂の上にいるというのは地理的に有利であるが、それでも逃げている)。そして山の上から矢を浴びせるという戦法を取って、この軍勢を退却させた。

 二番手として、瓜生、(瓜生保とともに金ヶ崎城包囲から離脱した)天野、(『今昔物語集』の「芋粥」の説話で有名な藤原利仁の子孫である)斎藤、下野の武士である小野寺らの軍勢が切っ先をそろえて攻め上がり、守っていた今川頼貞の陣が3か所ほど打ち破られて退却したのと交代して、控えの新しい軍勢として高師泰の率いる3千余人が戦列に加わった。このため、瓜生、小野寺の軍勢が劣勢になり、追い立てられて、宇都宮の軍勢と合流しようと北の峰のほうに向かう。その様子を見た大将の里見伊賀守は見苦しい、引き返せということで、敵の側面から攻撃を仕掛ける。

 足利方は、里見こそが大将であるとみていたので、他の軍勢には攻めかかることをせずに、里見を包囲して討とうとする。それを見た瓜生保と義鑑の兄弟は、戦況を見極めて、我々が戦死しないと、味方の軍勢は助かりそうもないと判断した。味方を逃がすために勇敢に戦って、武名を残そうというのである。そして2人で敵陣に割って入ろうとする。
 瓜生保の弟の林二郎入道源琳、瓜生重(しげし)、照(てらす)の3人はこれを見て、すでにはるか後方に退却していたが、ともに討ち死にしようと引き返す。その様子を見た義鑑は、「日頃何度も言い聞かせてきたことをいつの間に忘れたのだ。我々2人が戦死するのは、一旦の負け、兄弟がすべて戦死してしまえば、永世の負けだということを。深い思慮がないのは情けないことよ」と声を荒げて思いとどまらせようとしたので、3人の弟たちはその通りだと思い、少し立ち止まっていたその間に、大勢の敵に兄たちとの間を遮られてしまい、里見伊賀守、瓜生保、義鑑房は3人ともに戦死してしまった。

 葉原から深い雪を分けて、重い鎧が肩に食い込んで疲れた者たちは、数時間の合戦に入れ替わって戦う軍勢もなく力を使い果たしていたので、引き返して敵と戦おうにも力が出ず、退却しようにも足の力が抜けてしまっていた。そのため、あちこちで進退窮まって、そのまま腹を切ってしまったものは数知れない。幸いにして逃げ延びることができた兵も、その途中で弓矢、鎧、兜を捨てぬものはほとんどいなかった。それで足利方の将兵たちは、「以前に国府(越前市)、鯖並の戦闘で自分たちが捨てた物具を、今になってみな取り返した」と笑ったのであった。

 瓜生兄弟の軍は厳冬の積雪の中の行軍で力を奪われているうえに、周到に準備をして待機している足利方の軍勢と対決することになった。要害の地を抑えられているために、奇襲攻撃をかける余地もなかったようである。後詰めの戦が失敗して、金ヶ崎城の包囲を破ることが難しくなり、北国方面での戦闘の帰趨がほぼ決してしまった。もともと足利方のほうが兵力は多いので、宮方としては自分たちの士気の高さだけが頼りというところがある。この戦いでも、高師泰以外の足利方の武将たちのやる気のなさは歴然としている。森茂暁さんが『太平記の群像』で書いているところでは、一族の中で「軍事的性格をもっとも色く帯びていた」(角川文庫版、174ページ)役割を演じた人物であり、武将としての能力には段違いのものがあったようである。それに比べると、今川頼貞は精彩に欠ける。頼貞の従弟の貞世(了俊)が『難太平記』という本を書いて、南北朝の動乱における今川氏の役割が『太平記』では過小評価されていると論じていることはよく知られているが、岩波文庫版の第1分冊の解説を見る限り、了俊が問題にしているのは、彼の属する遠江今川氏の業績であり、頼貞らが属する駿河今川氏のほうについてはどうも関心がなかったようである。了俊は頼貞を直接に知っていたはずだから、そういうことも影響しているのかもしれない。
 瓜生兄弟の軍に加わっていた斎藤という武士が、藤原利仁の子孫であるということは書いたが、源平の合戦の際に白髪を黒く染めて戦った斎藤実盛もこの一族である。大将を務めた里見伊賀守の名はわからない由であるが、里見氏は新田一族であり、同じく新田一族の山名氏の大部分が足利方に走ったのに対し、宮方にとどまっている。そして、滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』で描いているように、何とか戦国時代を乗り切るのである。
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR