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石井遊佳『百年泥』

2月19日(月)曇りのち晴れ

 2月11日、石井遊佳『百年泥』(新潮社)を読む。

 インド最南部の大都市チェンナイでIT企業の社員たちに日本語を教えている語り手の<私>は、到着3か月半というときに、百年に一度という洪水に見舞われる。市内を流れるアダイヤール川が氾濫して、通信は途絶、水道も止まる(洪水で水道が止まるというのも考えてみれば変な話だ)。3日たってアダイヤール川の向こう岸にある会社へと出かけようとする。
  「街に出てまず気づいたのは名状しがたい匂いだ。すっぱいような甘いような、くどいくせに目鼻立ちのはっきりしない匂い、人生初の洪水翌朝の匂い。」(9ページ)
 泥まみれのゴミの山に圧倒され、洪水見物に集まってきている人々の群れをかき分け、川にかかる橋に近づく。ようやく橋にたどり着くと、橋のすぐ下を流れている黄土色の激流以上に目を奪われ、さらに「橋の上に目を移せば、川がたのしげにそこを通過したあとが一目瞭然だった。橋の中央には広い車道が走り、その車道の左右を通る歩道にそって幅1メートル、高さ50センチほどに盛り上げられた泥の山が、長さ500メートル以上あるコンクリート橋の端から端まで延々とつづくそのありさまは、川の抱擁のさいいやおうなく橋がうけとめた泥とその内容物の膨大さを物語る。このおびただしい泥を両端に掻き寄せたのは何十人もの人々の何時間にも及ぶ熊手の努力にちがいないが、百年ぶりの洪水ということは、それは1世紀にわたって川に抱きしめられたゴミが、あるいはその他の有象無象がいま陽の目を見たということだ。都会のドブ川の、とほうもない底の底まで攪拌され押しあいへしあい地上に揚げられた百年泥」(12ページ)と対面せざるを得ない。

 語り手は、自分を襲っている匂いの源がこの百年泥であったことに気づく。そのそばで、人々が泥の中から、自分の知り合いを引きずり出している。行方不明になっていた人物が、その時のまま姿を現し、引きずり出した人物と昔話や近況を語りだすのである。泥と取り組んでいたのであろうか、熊手を持っている人物が語り手に話しかける。日本語教室の生徒の一人で、授業中クラスのほかの面々を黙らせることができるほどの影響力を持っているが、その態度からずば抜けて育ちが悪いことがわかるデーヴァラージである。自分ではなく、付き合っていた男が抱え込んだ多重債務に追われ、日本語教室に雇われることになった語り手の「教師としてのレベルを第一日目から敏感に察知し、まったく尊敬にあたいしない人物たることを見抜いたのにちがいない」(22ページ)人物である。

 百年泥からは引き続きいろいろなもの、いろいろな過去が掘り出される。なぜか川の流れとは関係のないはずの物や人物まで掘り出される。語り手の教室体験や日本での生活の回想、父親が地方の村々を巡回して熊と相撲を取って見せる芸人だったというデーヴァラージの過去、泥から出てきた思い出もあるし、そうではない思い出もある。語り手は日本語と英語を使って授業をしているが、生徒たちはタミル語で騒いでいるという教室の混乱。それに劣らず語り手自身の日本での過去も乱雑である。

 チェンナイは1996年にマドラスから改称した、インドの工業都市で、急速に発展し続けていることで知られる。ところがその都市が発展し続ける新しい側面だけを見せているだけでないことを著者は描き出す。過去と現在と未来とが入り混じっている。洪水で授業が休みになることを携帯電話で知らせてきた生徒の名はアーナンダで、釈尊の甥・十大弟子の一人であり、多聞第一といわれる人物と同じ名前である。何気ないところに、恐ろしく古い過去との連続が垣間見える。そして、現実と超現実も入り乱れているのは、すでに紹介しているとおりである。物語の後半では、空を飛んでいる人間が衝突事故を起こしたりする。

 巨大な空想の羽をはばたかせて、新しい時代の到来への希求を物語につづったフランソワ・ラブレーは、多様な言語を使い分けてその物語を構成する人物であった。石井さんのこの作品を読んで私はラブレーの豊饒さを含みこんだ混とんとした世界を思い出した。ラブレーは新しい時代を描き出そうとしたのだが、その想像力の中には中世的な要素が充満していたといわれる。さらに、ここでは省略したが、スカトロジーの要素が特徴となっているのも、ラブレーと石井さんとに共通することである。チェンナイでの生活から、彼女が今後どのような文学作品を生み出していくのかが大いに注目される。

 付記:この作品を読んだことで、タミル語を勉強してみようかと思ったが、独特の文字を使うこと、白水社から出ているエキスプレス・シリーズ以外に入門書が見つけにくいことなどを知り、どうしようか迷っているところである。 
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