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エラスムス『痴愚神礼賛』(8)

2月16日(金)晴れたり曇ったり

 鈴の房の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をして登場した痴愚の女神が自賛の演説を展開します。自分こそが世の中を明るく、楽しいものにしてきたのに、そのことが忘れられている。自分で自分を礼賛する演説をしなければ、だれも自分の偉大さに気づかないだろうというのです。彼女はまず、人生そのものが男女の愚かな営みによって始まるのだといい、その人生も馬鹿げた戯れがなければ、つまらないものだと主張します。友情も結婚も相手の欠点に気づかないからこそ長続きするのであるし、国家を支えているのは愚かなおとぎ話でしかないと指摘します。学芸は虚栄心によって発展してきたし、人間の精神の大部分を占めるのは情動だとも論じます。理性的であろうとしても、付き合いにくい人間だとして他人から遠ざけられることは必定だといいます。

〔31〕
 女神は高いところから人間の世界を見下ろしてみればわかるように、「人間の一生というものは、なんとまあ数々の厄災に見舞われていることでしょう」(77‐78ページ)と述べてその生涯に付きまとう苦難の数々を列挙します。痴愚の女神(エラスムスの創作で、ギリシア・ローマ神話にはこんな神様は登場しません)は異教世界の存在ですから、「そもそもどんな罪を犯したがゆえに、人間たちはこんな目に合わねばならないのか」(78ページ)ということは説明しません(キリスト教世界の人間であるエラスムスと、多くの読者にとってそれは自明なはずのことです)。昔から、賢明であるがゆえに、これらの厄災と向かい、結局は自殺を選んだ人間は数えきれないと彼女は言います。しかし、もっと多くの人間は「一つには無知なために、また一つには思慮が浅いために、それにしばしばもろもろの悪が存在することを忘れて、ときには幸福が生まれることを期待して」(79ページ)生き続けています。「生きてゆくことへの嫌悪感なんぞは、きれっぱしほども持ち合わせていないのです。」(同上)
 そして男女を問わず、年をとっても愚かな快楽に身を任せ続けている人間が多いと指摘します。「愚かではあるが至極楽しい生活を送るほうがいいか、それとも、世にいう首を吊るための梁を探すほうがいいか」(81ページ)と問いかけます。他人からバカなことをしていると指摘されても、本人がそれでいいと思うのならば、いいじゃないかというのです。

〔32〕
 この主張に対し、「痴愚に囚われ、過ちを犯し、幻想を抱き、無知の闇に沈んでいることこそが、悲惨そのものである」(82ページ)と哲学者たちは反論するだろう。しかしこれは「痴愚こそはまさしく人間の性(さが)にかなっている」(83ページ)ことを無視した議論だと女神は一蹴します。
 あるいは人間だけに学問をする能力が備わっていることをどう受け止めるのかという議論もなされるが、学問は幸福のために役立つどころかその障害になるとさえいいます。そして学問は悪霊によってでっち上げられたのだという説まで開陳します。
 「本当のところ、黄金時代の素朴な人々は、なんの学問も身につけずに、自然の導くままに、本能にまかせて生きていたのです。争いやもめごと、犯罪のない社会に法律は必要がないように、難しい学問は必要なかったのだというのです。しかし、「この黄金時代の純粋さが次第に失われてゆくにつれて」(85ページ)悪霊たちが学問を作り出し、それが次第に力を増したのだと説明しています。学問は人間たちの頭を悩ますだけのものであると女神は極言します。〔ギリシア・ローマ神話では、大昔にはこの女神が言うような「黄金時代」があった、その後人間は堕落を重ねて現在に至るという一種の下降史観が有力でしたが、女神はそれを取り入れています。これは、18世紀の啓蒙思想における進歩史観とは対照的なものであることに注目しておきましょう。〕

〔33〕
 女神はさらに言葉を続けて、「しかしながらこれらの学問のうちで、一番役に立つとされているのは、常識、つまりは痴愚に最も近いものなのです。」(85ページ)と述べます。何事も常識に従っておけば安全だというわけでしょうか。世間の人は役に立たない理屈ばかりこねまわしている学者先生をそれほど尊敬はしないが、実際に役に立つ存在である医者だけは大事にされているといいます。「学問・技芸は痴愚に類すること近いほど、幸福をもたらしてくれるもので、あらゆる学芸・技芸などとはなんのかかわりも持たずに済み、ただ自然の導くままに生きている人たちこそが、はるかに幸福なのです。・・・自然は虚飾を嫌いますから、何であれ技芸によって損なわれていないものほど、成功を収めるのです。」(86ページ) 何事も自然に任せればいいというのです。〔もっともこの「自然に」という言葉は案外曲者で、何が「自然な」ことであるのかは人によってかなり意見の異なることではないかという気がします。〕

〔34〕
 そして女神は聴き手の関心を動物の世界に向けさせ、自然に従って生活を営んでいる蜜蜂たちの幸福と、「人間に近い感覚を持っているため、人間と一緒に住むことになったのですが、人間と同じ悲惨な目にあって」(87ページ)いる馬とを対比します。あらゆる動物の中で、人間だけが定められた境遇に満足せず、それを踏み越えようとして、かえって不幸になっているのだと主張します。

〔35〕
 愚か者=「できるだけ動物の本性と愚かさに近づき、人間の分際を超えるようなことは何一つ企てたりせぬ人たち」(89ページ)こそが、「もっとも不幸ではないように思われます」(同上)と女神は断じます。「愚か者たちは、自分自身がいつも陽気で遊びたわむれ、歌ったり笑いこけたりしているだけではなく、どこへ姿を見せようとも、ほかの人たちに楽しさと、冗談と、戯れと、笑いとを振りまいてくれます」(90ページ)とその役割を称賛します。だから彼らは他の人々からも愛される存在だといいます。

 痴愚女神の矛先は、今回は学問や学者に向けられる部分が多かったのですが、これを書いているエラスムス自身が学者であったということを忘れてはなりません。エラスムスの本意は、学問こそが人々を幸福にするものであるというところにあるわけですが、女神の弁舌があまりにもさわやかで、ひょっとしてエラスムスもある程度はそう思っていたのではないかと思わせるようなところがあります。知と無知の関係は相互的なところがありますから、エラスムスも苦笑しながらこの部分を書いていたのかもしれないと思ったりします。
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