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小川剛生『兼好法師』(9)

2月14日(水)晴れ

 『徒然草』の作者は卜部兼好、仮名を四郎太郎といい、金沢流北条氏に仕えて鎌倉と京都を往復しながら雑用を務めていた侍であったが、金沢貞顕が六波羅探題北方に補せられた延慶3年(1310)ごろから京都に定住したものと考えられる。また同じころ出家遁世したが、それは身分秩序のくびきから脱して、一方で権門に出入りし、他方で市井に立ち混じり、時々の用を弁じるための手段であった。彼は最初、六波羅周辺で活動していたが、おそらくは金沢流北条氏と上級貴族である堀川家の接近から、貴顕と交わるようになり、仁和寺の周辺に生活拠点を移した。そして経済活動により得た土地を後宇多院ゆかりの寺院に寄進することで歌壇デビューを果たした。鎌倉幕府滅亡後も高師直のような有力武士、三宝院賢俊のような高僧のために祐筆として働いた。(以上第1章~第5章の要約)

 第6章「破天荒な家集、晩年の妄執――歌壇の兼好」は歌人としての兼好の活動をたどる内容である。小川さんは「兼好は生前も死後も歌人として知られていた。兼好はまず歌壇という歌人社会で認められ、名声を得ていった。歌人の伝記は常に歌壇での位置を定めて記述することが必要である」(170ページ)という。和歌の歴史、さらに文学史に興味のある人にとっては面白いが、そうでなければどうでもいいようなことがここでは問題になっている。あらかじめ説明しておけば、「破天荒な家集」というのは、兼好が自分の詠んだ和歌を集めて編纂した家集が当時のほかの歌人の編纂した家集とかなり異なる、いかにも『徒然草』の作者らしいものであったということであり、「晩年の妄執」というのは、彼が『続千載和歌集』、『続後拾遺和歌集』、『風雅和歌集』という3つの勅撰和歌集に連続してその歌をとられた「三代作者」であったが、晩年に編纂中であった『新千載和歌集』にその歌がとられて、「四代作者」としてその感性を見届けることができないという無念さを抱いていたということである。

 兼好の歌道の師は二条為世(1250‐1338)である。為世は『徒然草』230段にも登場して「藤大納言殿」と呼ばれている。俊成―定家―為家―為氏―為世と続いた御子左家嫡流の生まれで、父の代から二条を称した。『新後撰和歌集』、『続千載和歌集』の2つの勅撰和歌集の単独選者となり、大覚寺統の天使や幕府将軍の師範となるなど、世俗的な栄誉を一身に集めた歌人である。さらに彼の娘の為子は後醍醐天皇の兄の後二条天皇の女房であったが、まだ東宮であられたころの後醍醐天皇の寵愛を受けて、尊良親王(『太平記』で恒良親王とともに新田義貞に奉じられて北国の金ヶ崎城で苦難に満ちた戦いを続けられている「一宮」である)、宗良親王らの子どもを産んだ。宗良親王が天台座主であったことは『太平記』にも記されている。宗良親王は建武新政後は還俗されて、南北朝時代には南朝のために奮戦されたが、また、優れた歌人であったとの評価も受けている。為子についても、『増鏡』は「集にもやさしき歌多く侍るべし」(講談社学術文庫版、下、69ページ、『続千載集』にも優雅な歌が多く入ったようだ)と記している。

 この二条為世の二条派と対立したのが、彼の従弟である京極為兼(「ためかぬ」と読むのが正しいそうである)の率いる京極派である。(さらに年少の叔父である冷泉為相(ためすけ)とは、家領をめぐって争った。) 

 古典和歌は与えられた題に即してその意図を満たすように詠む題詠が主流であった。つまり、古今集以来の伝統の中で定着されてきた題材と着想を忠実に守り、その中で自分なりの表現を探ろうとするものである。為世の二条派は古典和歌の範疇で新しい美や感動を発見せよと教えたのに対し、京極派は自由な発想や古歌にとらわれない表現を尊んだ。それ故、近現代では京極派の評価のほうが高くなっている(歴史学者の今谷明さんが京極為兼の評伝を書いているのはこの点で興味深い)。
 二条派の型にはまった表現は、それ故に新興の武士たちにはとっつきやすいものであった。『二条派の教えのように、よく知っている古歌に学んで、その表現を借りて新しい題意を詠むこと、特に古歌の部分的引用によりその内容を効果的に想起させる技法(本歌取り)がよほどわかりやすいし、何より中世の大多数の作歌層にとって安心して参入できる。鎌倉時代以来、武士が和歌を好み、その作品が一見没個性的である理由は、これで説明がつく。また古今集を知ることが歌詠みにとって何より肝要であることも理解できるであろう」(175ページ)。
 逆に言うと、京極派の主張は、十分な作歌訓練を積んできた廷臣・女房にしか浸透しなかったのである。二条派が大覚寺統と結びついたのに対し、京極派は持明院統と結びつき、歌道における対立は政治的な色彩を帯びたが、京極派が優勢な勅撰集は為兼が選者となった『玉葉和歌集』と、花園院が編纂された『風雅和歌集』だけである。伊藤敬によると、「『風雅集』には多くの女性家人が男性に伍していて華麗である」(伊藤『新北朝の人と文学』、50ページ)。ところがその後の勅撰和歌集になると女性歌人の割合も歌数も減っているという。伊藤はこれを宮廷内で女性が一定の役割を演じていた王朝の残影がみられる時代から男性優位の乱世への時代の変化とみるが、二条派と京極派の違いとみることもできるだろう。

 為世は門弟の指導に熱心であり、廷臣ばかりでなく、武士や僧侶、あるいは格別の出自を持たない地下にも及んだ。そして、特に優れた地下門弟4名を四天王と称した。四天王には出入りがあるが、『正徹物語』が記す頓阿・慶運・淨弁・兼好というのが最も一般的である(小川さんは「地下」の門弟と記しているので、二条良基を四天王に加える説がそのことから誤りであると断定できる)。なぜ四天王が活躍したか。「和歌を詠むためには、まずは最低限、題と本意を知らなくてはいけないし、そのためには詠草の添削が繰り返される。しかし、一般の門弟がこまごまとした指導を為世や為定に期待することは非現実的である。また歌道師範も自ら権威を安売りするようなことはしない。庶子を代理にするのも一法だが、この時代はすぐに一家を立てようとする野心を抱くので信頼できない。そこで活躍したのが、師範にあくまで忠誠を誓った地下門弟である。」(175‐176ページ) こうして入門・初心のものは四天王から手ほどきを受けて腕を磨き、また身軽な身の上であった四天王は地方を遊歴して二条派の勢力を拡大するために尽力もしたのであったという。
 兼好はほかの3人に比べると遅く二条派の催しに加わっているが、おそらくは頓阿らを介して為世に入門したということであろう。為世が選んだ『続千載集』にはもっとも若年の慶運を除く3人が入集し、その後、彼の歌人としての活動は本格的なものとなる。

 「破天荒な家集」がどのようなものであったのかに行き着く前に本日分を終えるのはあまり気分のいいものではないが、それでもせっかく書いた原稿が途中で消えてしまうよりはいいと思う。二条派と京極派の対立とよく似た事態は現在でも起きるわけで、文章を書くのに「思ったことを自由に書きなさい」などという指導法よりも、手取り足取り具体的に書き方を教えるほうが人気が高いというのは、大学の卒業論文などにも当てはまるのではないかという気がする。

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