南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』(つづき)

6月9日(日)晴れ

 南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』は、ローマ帝国の「衰亡」を新たな角度からとらえ直そうとする試みである。昨日は、第4章まで取り上げたが、本日は第5章について詳しく紹介する。

 第5章「動き出す大地――ウァレンティニアヌス朝の試練――」はウァレンティニアヌスが皇帝に選ばれた364年から、テオドシウスが皇帝に選ばれた379年までの期間について論じている。ウァレンティニアヌスは弟のウァレンスを自分と同格の共治帝として帝国の東半分を担当させただけでなく、宮廷の人員や財政までもはっきりと二分した。しかしこの段階では兄と弟の連携はある程度維持されていた。帝国の西半分を担当するウァレンティニアヌス帝はその治世の間、フロンティアの安定のために奔走する。まずアラマンニ族が反乱をおこし、次にブリテン島のローマ属州が諸部族の集団に襲われて被害を出した。属州を攻撃した部族はアイルランドから来たスコティ族、スコットランド東部から来たピクト族、ブリテン島の北部からやって来たアッタコッティ族である。さらにほぼ同じ時期にサクソン族とフランク族がガリアの海岸部を攻撃した。

 ローマ人は外の世界にいる「蛮族」たちを互いに争わせ、同盟を作らせないことが安全の秘訣と考えていた。このため、いくつもの部族からの攻撃を同時に受けることは、その同時性が「共謀」によるというよりも、おそらくは偶然のことであったにもかかわらず大きな衝撃であった。しかもこのような危機の中でウァレンティニアヌス帝が死に、後継者をめぐって混乱が生じた。このような状況の中で、帝国の内部では軍事の要職に「第三の新しいローマ人」が就くことが増えてきた。「こうした『第三の新しいローマ人」の台頭は、「民族」に関するローマ帝国の融通無碍な性格によるものだった。現代的観点からすれば、特定の民族にこだわらない寛大な措置と見えるかもしれないが、そもそもローマ人は『民族』という考え方を19世紀以降のような特殊な意味で理解していなかった。皇帝たちは彼らの実力を認め、重用した。『特別の事情』でもない限り、彼らを退ける理由はなかったのである。」(156ページ)

 さらに、帝国の西側では、このような新しい人材の供給源であったフロンティアの社会では、地方の有力者たちが次第に独立性を強めるようになってきた。370年代に入ってフロンティアの有力な集団であったゴート族が、東から遊牧民のフン族の来襲を受ける。このためにゴート族の移動が始まる(「民族の大移動」)。悪化する事態の中で東西の皇帝は連携して対処しようとするが、齟齬が生じ、378年のアドリアノープルの戦いでローマ帝国軍はウァレンス帝が死んだのをはじめ、決定的な敗北を喫する。歴史家のアンミアヌスはこれを「後悔が止むことのない破滅」(169ページ)と記している。帝国の東半分の秩序と支配を回復するために皇帝に指名されたのはテオドシウスであった。

 この章では、ローマが依然として社会の変化に対応してその政治・軍事組織を変化させていく力をもちつづけていたこと、その一方でそのような対応にもかかわらず、食い止めることのできないより大きな変化が生じ始めていたこと、さらに社会の変化とともに、皇帝のような支配者の性格(たとえばウァレンス帝の小心さ)が大きな影響をもったことなどが注目される。本日で、この書物の紹介を終えるつもりだったが、もう1回続けることにする。(つづく) 
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