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松岡譲『敦煌物語』

2月10日(土)晴れ

 松岡譲『敦煌物語』(講談社学術文庫)を読む。長いことほったらかしにしていた宿題をやっと片づけた気分である。もう20年以上昔に、それまで勤務していた大学からほかの職場に移ることになって研究室の蔵書を整理していた時に、この書物を見つけ、どこでどのようにして買ったか全く記憶がなく(本にかぶせてあるカバーから横浜の有隣堂で勝ったことだけが分かった)、驚き怪しんだことを思い出す。それ以前に文学史的な興味から松岡の名は知っていたし、大学での同僚が松岡の未亡人(つまり夏目漱石の長女松岡筆子)と面識があったようで、『敦煌物語』の話も聞いていたのだが、その本を自分が持っているとは全く思っていなかったのである。

 この作品は敦煌の莫高窟から膨大な量の写経類が持ち出された経緯、作者の表現を借りると「文化侵略の古戦場」(20ページ)における戦いの様子を枠物語の形式で語ったものであるが、創作であるにもかかわらず、平凡社版の『世界教養全集』、さらに講談社の学術文庫に収録されていることで分かるように、文学的な達成度の高さよりも、篇中で語られている事実の歴史的な意義によって評価を受けているところがある。松岡はもう1つの代表作『法城を護る人々』を読んでいても感じることであるが、文学的な描写力・造形力よりも、主題設定や思索の深さを特色とする作家であり、そのことが彼の作品の評価にも反映されているようである。

 東京・根岸の書道博物館を想定したらしい小博物館で、この博物館の創設者である中村不折をモデルとしているらしい70代の老人が、著者の分身である「私」を相手に敦煌写経を見せながら、敦煌写経が世に出るに至った経緯を語る。20世紀の初めから第一次世界大戦の勃発時までの期間に、欧州列強がシルクロードの地政学的な意義に着目しただけでなく、歴史的な資料の宝庫としての意義にも気づいて、この地に続々と探検隊を送るに至ったこと、そのなかで英国のスタインが1907年に敦煌に達し、この地の千仏洞のうわさを聞いて、この洞窟を管理している住持の王道士と交渉して漢文、梵語チベット文、その他西域地方のもろもろの文字で書かれた写経、ほかに絵や織物や仏像など29箱分をたった10枚足らずの馬蹄銀で手に入れることに成功する。スタインは梵語やトルコ語やチベット語などは何とか理解できるが、漢文が少しもわからないというハンディを抱えていたのだが、それでもこれだけの成果を上げた。

 「この千仏洞から出た古写経の中には、中国、朝鮮、日本三国で、しばしば結集された、大蔵経にないいわゆる逸経がどっさり出てきた…。それらのものは『大正新修大蔵経』の中におさめられたが、その数も多く、また、従来名のみ知られていて実物にお目にかかったことがない珍本もある。そのかわりまた疑経偽経といったお愛敬のあるしろものも少なからず出てきたようだ。これは仏典のほうばかりでなく、道教のほうのいわゆる道蔵でもご同様。
 このほか、従来、大秦景教流行中国碑を唯一の手がかりにしていたキリスト教の一派ネストリウス教、すなわち景教の漢訳経典が出てくる、マニ(摩尼)教が出てくる、祆教すなわち拝火教の教典が出てくる。そのほか四書五経はじめ各方面の古書なんでもござれで、唐あるいは唐以前のものが出てきたのdから、旧来の中国研究はここに一変せざるを得なくなったわけだ。そのうえになおチベット文、本分、イラン分、トルコ分をはじめ、今は死語となった西域の古代語までいくつも現れてきたのだから、これらの研究ができあがった暁には、今までの中央アジアはいうに及ばず、ひろく東アジアの歴史に幾多の修正やら付け加えやらが必要になってもこよう。」(120-121ページ)

 1908年にはフランスのぺリオの一行が敦煌を訪れる。スタインと違ってぺリオはベトナムのハノイ育ちで、中国語もできるし、漢文も読める。すでにシルクロードの各地を探索してきた彼は、「イラン的要素の中国的展開が、キジール(クチャ)の千仏洞ではまだよく顕われず、トルファン(吐魯蕃)でやや体をなし、ここ敦煌の千仏洞にいたってありありと示されている」(146ページ)野に興味を抱くが、「こうした東西文明の交流は、漢文以外のいわゆる蕃語の古書を調査する段になっていよいよ確かさを増してくるように見えた」(同上)。しかもそれらの言語が驚くほどに多種類なのである。
 ぺリオは自身の発見を中国の学者たちに伝えるが、驚いた中国の学者たちは子文書が海外に持ち出されるのを止めようと王道士を捕縛しようとする。王道士は何とか役人たちに袖の下を使ってそれを逃れる…。

 このような経緯ののち、辛亥革命の前夜の敦煌に2人の日本人がたどりつく。立花(橘瑞超)と吉川(小一郎)である… 上原和の開設を読むとわかるが、この日本人たち、とくに立花の言動は、歴史的事実とは異なる、作者の創作が加えられており、そこに作者の意図が表れているようでもある。立花の「僕は仏の御名にかけて絶対にだまし討ちはしません。だから貴僧も仏弟子のひとりとして、僕の聖業に一臂の力をかしてくださってもよろしいはず」(229ページ)という言葉にそれが要約されている。王道士は道教の道士であるから、仏弟子とは言えず(仏教と道教が混淆しているという側面はあるが)、このあたりの認識の甘さがもう少し自覚されてもよかったのではないかと思ったりする。真宗寺院の後継ぎとして生まれた松岡の仏教に対する知識・理解や、彼がその関心に任せて蓄積した西域についての情報・知識が欧州諸国の東アジアへの「文化侵略」という批判精神を生み出しても、自らの思想に対するより根本的な自覚にいたらなかったのは、惜しまれてもいいことである。
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