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エラスムス『痴愚神礼讃』(7)

2月7日(晴れ)

 鈴の付いた阿呆の帽子をかぶり、道化の扮装をした痴愚の女神が自分自身を礼賛する演説をします。世の中を明るく、楽しくしてきたのは自分であるのに、その役割が見逃されてきたから、自分の偉大さを知らしめるというのです。自分をほめる者は誰もいなさそうだし、自分のことは自分がよく知っているとも言います。うぬぼれたり、あばたをえくぼと勘違いしたりする痴愚の働きがなければ、世の中はうまくいかないはずだと話を続けていきます。

〔26〕
 賢者、あるいは哲学者ほど退屈で人の役に立たない連中はいないとこき下ろした後で、女神はまた人間の社会生活に話を戻します。「岩だの、樫の木だのから生まれた野蛮な人間たちが、群れ集まって都市生活を送るようになったのは、どんな力に駆られてなのでしょう。」(66ページ) 既に断っているように、<痴愚の女神>という存在は、エラスムスが作り出したもので、ギリシアやローマの神話にはそんな神様は出てきません。とはいうものの、彼女の話は異教的です。『旧約』の「創世記」には神が人間を土(アダマ)から作った(2‐7)と書かれているのですから、まじめなキリスト教徒は眉をひそめるところでしょう。さて、人間が岩や、樫の木から作られたとその詩の中で歌ったのは、ローマ白銀時代の叙事詩人スターティウスだそうです。スターティウスというと、ダンテの『神曲』『煉獄篇』の終りのほうでウェルギリウスとダンテに合流する詩人として今日では知られているのではないでしょうか(どう考えても、後の2人から見ると見劣りがします)。
 『創世記」では神が人間を土から作ったと書きましたが、中国の古代神話の女媧が人間を作った物語も同様です。ただ、『創世記』の神はアダムを作っただけで終わるのですが、女媧はたくさんの人間を作り上げ、そのうち面倒くさくなって泥水に枝をつけて振り回し人間を量産した…女媧がきちんと作った人間の子孫は金持ちに、量産された法の人間は貧乏人になった…という話もあるそうですが、当てになりませんね。確か北欧神話ではオーディンが木から人間を作っています。ほかにも、いろいろな神話があるようです。

 都市の住民たちは、他愛のないおとぎ話を信じてそれで結合しているのだと女神は言います。彼女はローマの平民たちが指導者たちに反抗して、丘の上に立てこもった時に説得にあたったメネーニウス・アグリッパのたとえ話を持ち出します。人間の胃は食べたものを受け取るだけで何もしないが、手や足は忙しく働いていて不公平だと文句をいうだけでなく、何も胃に与えないようにしたところ、伊だけでなく、手足も弱ってきたといいます。つまり体の各部分にはそれぞれの役割があり、それぞれの役割をはたして全体としての働きが成り立つのだというのですが、女神はこれを他愛のないおとぎ話であるといいます(アグリッパの考えは、今日、社会有機体説と呼ばれる社会理論の原型なので、それほどバカにできるものではありません)。「民衆という巨大で強い力を持つ獣は、こういった愚にもつかぬ話によってあやつられ、動かされるものなのです。」(67ページ) 大衆社会論やポピュリズムの台頭する現代の状況を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。このあたり、エラスムスさんつい本音を出しているとも考えられますね。
 アグリッパの話を記録しているのはリーウィウスの『ローマ建国史』(2-32、岩波文庫版、情感、227-228ページ)ですが、似たような話はイソップの寓話集にあり、また『新約聖書』の『コリントの信徒への手紙』(1-12-12以下)にも見られます。リーウィウスによれば、この出来事は紀元前493年のことですから、聖パウロが『手紙』を書くのよりはだいぶ前のことですが、それぞれの話に影響関係があるかどうかは説の分かれるところだそうです。

〔27〕
 このように市民たちはおとぎ話を信じて市民生活を送っている一方で、プラトンやアリストテレス、ソクラテスの教説に従って都市国家を作り上げ、維持しているという例があるだろうかと女神は続けます。結局のところ民衆にへつらう物が成功を収めるといいます。「こういった痴愚が都市社会を生み、支配権も、統治制度も、宗教も、議会も、司法も安泰を保っているのですから、人間の生活などは痴愚女神のたわむれのようなものにほかなりません」(69ページ)。

〔28〕
 次に女神は様々な技芸・学芸もまた名誉欲という痴愚の産物だといいます。勤勉さの背後には名誉欲がある、それなくして人間がどうして汗水たらして努力を重ねるのだというのです。「みなさんにしても、人生においてまことに有益なものに関しては、このあたしの恩恵を受けていらっしゃるのです。とりわけ楽しいのは、他人の狂気の沙汰を楽しむというやつですね。」(69ページ)

〔29〕
 人間を勇敢な行動に駆り立てるのも、勤勉な努力を続けさせるのも、結局は痴愚の働きだといった後、女神はさらに思慮深さも結局は痴愚に帰するのだと断言します。思慮深さは実践から生まれ、人を実践に駆り立てるのは危険を恐れず事態に立ち向かおうとする気持であるといいます。危険に向う見ずに立ち向かうのはやはり痴愚の働きですね。
 さらに彼女は物事には二面性があって、表面的な見かけだけで判断はできないといいます。そうはいっても、人々が信じている見せかけのほうを大事にするのが結局は身のためだと続けます。「本当の思慮深い人物というのは、人間であるからには人知を超えた知識を求めたりせず、世の多くの人々がなすところに従って、人の過ちに寛大に目をつぶってやるか、みんなと一緒に過ちを犯すものなのです〕(74ページ)といやに世間ずれのした教訓を述べます。

〔30〕
 「すべての情動が痴愚から発する」(75ページ)ということは広く認められた真理である(現代の心理学者でも同じようなことをいう人がいます)といい、「愚者は情動に支配され、智者は理性に支配される」(同上)と続けながら、ストア派の哲学者のように理性に従って、自分の情動を抑えるのが真に幸福な生き方なのかと問います。ここで女神はストア派を代表する哲学者としてセネカの例を挙げているのですが、これは注によると、セネカを「かの陰気な哲学者、ストア派の中でも最もストア派的だといえそうな人物」と評している(258ページ)エラスムス自身の意見のようです。セネカにそういう一面があるのは否定できないかもしれませんが、ネロの先生であり、彼がいなかったらこの暴君の治世はもっと陰惨なものになったであろうといわれるセネカを、エラスムスは誤解していたのではないかという気がしてなりません。第一、セネカは、かなり金を儲けて財産を蓄えていたそうです。
 とにかく、人と同じように泣いたり笑ったりして、人付き合いを欠かさない人物のほうが好ましいというのが女神の説です。ただ、これはストア派の哲学とは矛盾しないような気もするのですが…。

 どうせ痴愚の女神の言うことなのだから、笑い飛ばしながら読んでくださって結構ですよと、いいながら、エラスムスは本心とは逆のことを言ったり、本心をぶちまけたりしています。このあたり細心の注意を払って読まないと、逆の解釈も可能なわけで、私の読み方が間違っているかもしれませんが。そういう場合は遠慮なくご指摘いただければ、あるいはご自分のご意見を発表していただければ幸いです。
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