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小川剛生『兼好法師』(4)

12月30日(土)晴れ、バスの車窓から富士山が見えた。

 『徒然草』の作者について、同時代史料からできるだけ多くの情報を引き出すことで、従来信じられていた兼好の伝記を書き換えようとするのが、この書物の意図である。
 第1章「兼好法師とは誰か」では、勅撰和歌集における作者表記がすべて「兼好法師」となっていることから、彼が「諸大夫」ではなく、「侍」以下の身分の出身であると推測し、伊勢にゆかりのある卜部氏の一族で、都で生活していたが、彼の父親の代になって、伊勢に勢力を持つ金沢流北条氏に仕えるべく鎌倉に下向したものと考えている。
 第2章「「無位無官の「四郎太郎」――鎌倉の兼好」は、金沢文庫に残された古文書を手掛かりとして、在俗時代の兼好が卜部兼好、仮名を四郎太郎と言い、父親の死後、いったん京に戻ったが、その後、金沢貞顕に仕え、貞顕やその信認する僧である称名寺の劔阿のために京と鎌倉を往復する生活を送っていたと述べている。延慶2年(1309)から正和2年(1313)までの間に彼は遁世したが、宗教的な動機によるというよりも、そのことで身分秩序のくびきから脱し、権門に出入りしたり、市井に立ち交じったりして、貴顕のために様々な用を果たすことができるようにするためであった。
 第3章「出家、土地売買、歌壇デビュー――都の兼好(一)」では、貞顕が六波羅探題北方に任じられたころから、兼好が京に定住するようになり、六波羅周辺で活動していたこと、この地で活発に展開されていた経済活動にかかわり、土地を売買していたこと、貴顕からの恩顧を得るために自分の土地を寺院に寄進し、そのことで後宇多上皇から和歌を召され、歌壇へのデビューを果たすことになる。金沢流北条氏と堀川家の接近に伴い、堀川家とのつながりができ、また活動圏を次第に仁和寺の周辺に移すことになったことを述べている。

 今回は第4章「内裏を覗く遁世者――都の兼好(二)」についてみていく。この章は長いので、前半だけの紹介となる。
 『徒然草』の中で、兼好は「何事も古き世のみぞ慕はしき」と自分の価値観を表明したうえで、そのような過去のよき精神を最も遺す空間として内裏の有様を描写している。その描写は回顧ではなく、眼前の情景としてのものである。ではどうしてこのようなことを知り、書いたのか。
 先ず、兼好が目にしたのは内裏といっても、もともとの大内裏ではなく、里内裏(天皇がお住まいとして、洛中の廷臣の邸を借り受けられたもの)であり、具体的には花園天皇の里内裏である二条富小路殿であったという。文保2年(1318)に花園天皇は在位10年で退位され、後醍醐天皇が即位される。そのことを記したのが『徒然草』の27段である。〔小川さんは、読者が知っているだろうと思ったのか、書いていないが、この時、退位された花園天皇は22歳、新たに即位された後醍醐天皇は31歳であった。花園院はその日記の中で、「春宮は和漢の才を兼ね、年歯父の如し、誠に道理然るべし」(岩橋小弥太『花園天皇』、28ページ)と記されているそうである。〕

 ところで、花園天皇から後醍醐天皇への代替わりにはそれまでと違うことがあった。内裏(里内裏)を新帝が引き続き利用したことである。話がややこしくなるのだが、花園天皇は長らく、二条富小路殿を里内裏とされていた。ところが文保元年に鎌倉幕府の力で、冷泉富小路内裏がつくられ、そこに移られて、翌年、譲位されたということである。
 この新しい里内裏が竣工した際に、見物人が入り込んできたという記事に小川さんは目を留めている。花園院の日記にはその時「見物の女、小袖を着する者、悉く追ひだす」(文保元年4月20日条、105ページ)とある。
 「天皇の居住空間近くまで早くも見物人が入り込んでいるのである。
 この時代の内裏は、里内裏であるゆえ、四周が道路に直接面するわけで、必ずしも閉ざされてはいなかった。とりわけ政務朝議の行われる日は見物人で溢れていた。」(同上)
 憧れと野次馬根性が入り混じって、大勢の見物人が近づいてきたのであるが、「兼好の内裏へ抱いた憧憬は、この日に内裏に詰めかけた都市住民のそれと違いのあるものではなかった」(107ページ)と小川さんは論じる。

 「禁中奥深くまで無関係の観衆が闖入すること、常識では理解しがたい現象である。とはいえ中世の朝廷はこうした見物人を必ずしも排除しなかった。それは天皇以下自分たちが「見られる」身体であることを承知していたからであろう。」(107-108ページ) この記述は、ヨーロッパ、とくにフランスの国王の例と共通する事柄に触れていて、興味深い。
 先ほど引用した花園院の日記の中で「小袖を着するもの」が追い出されたというのは、わざと派手な格好をして内裏を見物する連中が非常に多かったということで、その一方で追い出されなかった見物人もいたのであると論じる。「その違いは、おそらく頭に衣をかぶる、「衣かづき」の姿になっていたことにあろう」(108ページ)という。「「衣をかづく」つまり衣をかぶって頭を隠すのは、自らの姿を隠す意思表示であった。…こうすれば天皇や廷臣たちにとっても、見えていても見えない存在となる」(108-109ページ)である。こうした存在が、意外に便利な役割を演じることがある。
 「男の場合、頭に頭巾などをかぶり目だけを出す姿、つまり「裹頭(かとう)」となる。…兼好は「裹頭」の姿となり、内裏へ自由自在に入り込むものの一人であった。」(109-110ページ)という。後半の推測は、『徒然草』の中の記事を根拠としているので、説得力に富む。

 以上のことから、兼好が『徒然草』で述べている宮廷への視線は、蔵人というような公家社会の正式の構成員のものではなかったと論じている。「確かに徒然草には数多くの廷臣が登場し、摂関・大臣の談話も記録されるが、しかしそれは多く伝聞や書承であり、師事した歌道師範を除いては、双方向的な対話はほとんど見られないのである」(116ページ)という。
 ということで、「内裏を覗く遁世者」という章題の意味は明らかであろう。遁世者だからこそ覗くことができる世界について、『徒然草』は語っているのである。

 さて、この書物の著者である小川剛生さんが、すでに読んだだけでなく、亀田俊和『観応の擾乱』の書評の中で言及した二条良基の仮名日記について論じた『南北朝の宮廷誌 二条良基の仮名日記』の著者であることを見落としていたことに気づいた。我ながら面目ない次第である。この『兼好法師』でも第6章に二条良基が登場する(良基は、兼好に会っているのである)。一方で関白という高い地位にあり、庶民的な連歌を能くし、南北朝の動乱の時代を泳ぎぬけた良基は、きわめて複雑で一筋縄でいかない人物という印象があるが、小川さんはそのような人物像と重なるものを兼好にも見ているのかもしれない。

 第4章の後半では、兼好と検非違使庁との関係が考察され、『徒然草』が都市の文学であるという議論へと進む。次回をお楽しみに。 
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