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前田速夫『「新しき村」の百年 <愚者の園>の真実』(5)

12月29日(金)晴れ

 「新しき村」は『白樺』派の中心人物であった武者小路実篤の構想をもとに、1918年(大正7)11月14日に日向=宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城に始められ、1939年(昭和14)にその大部分が埼玉県入間郡毛呂山町葛貫に移り、現在も存続している生活共同体の試みである。その試みの背景には米騒動をはじめとする当時の社会不安の中での、社会改造への志向があった。「村」の特色は共同の労働と、余暇における個人の自由な創造的活動とを両立させようとしていることであるが、実際には村の歴史の中で、生活のための労働を重視する人々と、創造的活動を重視する活動を重視する人々との対立が続いて、内紛が絶えなかった。それでも村の事業は拡大し、社会的な認知も広がっていった。

 1923年(大正12)には村の義務労働の時間を8時間から6時間に減らし、1925年(大正14)には村内印刷所ができ、『新しき村通信』が発行されはじめ、その16号で武者小路は会員を1万人に増やし、将来は100万人にすると気炎を上げているのだが、この年の12月に彼は離村して、村外会員となり、志賀直哉の住む奈良に移ってしまった。(翌年、姉の住む和歌山にさらに移住する。)
 武者小路の離村によって、「村」は存続の危機を迎える。彼の離村をめぐっては、「言い出した以上、村に踏みとどまるべきで、それが村民への責任でもある」(勝本清一郎、71ページ)という批判もあるが、著者はこれも「実篤の図太さの証明」(75ページ)と論じている。彼の離村により、「村」の人口が激減したことは否定できないが、「村」に残った人々はさしたる動揺を見せなかった〔あるいは、動揺しなかったから、村に残ったということかもしれない〕。

 武者小路の離村後も「村」の事業は山あり谷ありの展開を辿る。1927年(昭和2)2月、東京の曠野社では、『日本古典全集』が当たり、設備を拡張したのが裏目に出て、資金難に陥り、労働争議の末に、解散に追い込まれる。その一方で日向では1928年(昭和3)に水路が開通して主食自給の目途が立つ。
 東京支部では1927年2月に東京に戻った武者小路を囲む木曜会が定例化して、活動が活発化した。この会には、岸田劉生の娘の麗子が武者小路に誘われて参加、ほかに後年シナリオライターとして『七人の侍』などを手がける小国英雄も加わっていた。
 1936年(昭和11)に武者小路は兄の公共がドイツ大使として赴任しているのをさいわい、欧米旅行に出かける。途中、上海で魯迅に会い、パリでは、マチス、ルオー、ドラン、ピカソを訪問、ベルリンではオリンピックを見物し、ナチスの党大会でヒットラーと握手を交わし、フィレンツェ、ローマからニューヨークを回って、12月に帰国。〔いい気なものであるといってしまえばそれまでだが、思ったことは何でもやってみて、あまり後で後悔しないというのが武者小路流であろう。ベルリン・オリンピックに対してどのような感想を持ったかが書かれていないのが残念で、武者小路の美学からすると、その組織原理には、あまり感心しなかったのではないかと思うが、日本選手の活躍に感激したのかもしれない。〕

 ところが1938年(昭和13)に水路完成後、日向の村では米、麦、茶、果樹がようやく軌道に乗って、いよいよこれからというときに、県営ダム工事が発表され、「村」の最良の土地を含む下の田畑がそのために水没することになる。
 「新しき村」は、創設当時から私服刑事が見張ったり、1925年には、宮内省の要請で武者小路が分家して華族から平民に身分を変えるなど、陰に日に官憲からの干渉を受けてきた。
 「どうやら先の見通しがついてほっとした、そのタイミングを見計らうようにして、候補地は他にいくらもありそうなものなのに、よりによって新しき村の地にダムを築くとは、県当局も悪質である」(82ページ)と、前田さんは書いているが、多くの村民がそのような思いを抱いたに違いない。

 1931年(昭和6)の満州事変に続き、1937(昭和12)には日中戦争がはじまり、すでに戦時下にあった時局の中で、「カイゼルのものは、カイゼルに」委ねるのが持論の武者小路は、この動きに反対せず、県当局と交渉して、3千円ほどの補償費を得ると、直ちに東京近郊の新たな土地探しに着手した。日向の村は杉山夫妻、高橋夫妻の2家族が残り、翌年からは杉山夫妻のみになる。
 1939年(昭和14)、東武東上線沿線に土地が見つかった。埼玉県入間郡毛呂山町大字葛貫(つづらぬき)の雑木林地1ヘクタールで、9月17日に鍬入れ式が行われた。日向の村からは2家族が移住、近くに家を借りて開墾に従事した。日向の村の発足時に比べて、淋しいスタートであったが、武者小路には「今度はもう少し現実的な気持ちで自分達の仕事場として村をつくろう」(84ページ)という抱負があった。
 東京近郊に移転したことで、村外会員からの支援も受けやすくなった。武者小路を始め村外会員たちは村を定期的に訪問し、財政支援を惜しまなかった。前田さんは村内会員・村外会員の制度が「村」を再三の危機から救ってきた最大の理由だとしている。
 そして東京神田の神保町に新村堂が開設される。それは村の事務所であり、会員たちの集会所であるとともに、武者小路や彼の導師たちの作品の複製が市販されている場所でもあった。

 実際問題として、村の生活を理念的に支持できても、実践できるとは限らない。だから、村内会員、村外会員という制度が設けられたのである。その点で、「新しき村」は優れた実践であるのだが、武者小路自身が共同労働を実践し続けられなかったのだから、問題は複雑である。「村」と武者小路が太平洋戦争にどのようにかかわったかは次回に触れることになる。 
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