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エラスムス『痴愚神礼賛』

12月28日(木)晴れ、バスの車窓から富士山が見えた。

 ダンテの『神曲』に続いて、ルネサンスを代表する著述家であるエラスムス(Desiderius Erasmus, 1466-1536)の代表作と考えられている『痴愚神礼賛』(Μωριαs Εγκωμιον,Id est Stultitiae Laus、モーリアス・エンコーミオン、イド・エスト・ストゥルティティアエ・ラウス、1511)の沓掛良彦訳(中公文庫)を取り上げることにする。『神曲』に続いては、ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』を読んでいくつもりだったのだが、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の基調となっているルネサンスの精神を理解するためには『痴愚神礼賛』とトマス・モアの『ユートピア』をまず読んでおかなければならないと思い直した次第である。

 この書物の題名のうち「モーリアス・エンコーミオン」というのはギリシア語、その後の「イド・エスト・ストゥルティティアエ・ラウス」というのはラテン語で、この書物はラテン語で書かれている。沓掛良彦さんは西洋古典学者でルネサンス期の思想・文学の専門家ではないが、古典文芸の復興期であるといわれるルネサンスを代表する文学作品らしく、ギリシア語やギリシア神話・文学の内容がふんだんにちりばめられているこの作品の翻訳には適任であろう。なお、この作品には、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の翻訳者・研究者として知られる渡辺一夫によるフランス語からの重訳があり、沓掛さんによると「名訳であって、現在までのところ、唯一の信頼できる邦訳である」(7ページ)とのことである。渡辺訳は以前持っていたはずだが、その後、手放してしまった。また探し出してみるつもりである。それから、沓掛さんも触れているB・レイディスの英訳は手元にあるので、それも参考にしていきたい。また、ネットで検索すればラテン語本文を探し当てることもできるはずだが、そこまでするかどうかは今後の成り行きに任せたい。

 さて、id estというのはi.e.と略記されることもあるが、英語のthat is (to say)に相当し、「すなわち、言い換えれば」という意味であり、ギリシア語の「モーリアス・エンコーミオン」をラテン語に言い換えると、「ストゥルティティアエ・ラウス」ということで、同じことを2つの言語で言っているのである。(「モーリアス」「ストゥルティティアエ」は「痴愚女神の」、「エンコーミオン」「ラウス」は「賞賛」「賛美」ということらしい。沓掛さんによると、ギリシア語の「モーリアス」という属格形には主格としての〔痴愚女神が行う礼賛という〕意味合いと、〔痴愚女神に向けて行われる礼賛という〕対格としての意味合いが含まれているというからなかなか面倒である。ギリシア語がわからないので、少しはわかるように努力を続けていきたい。)

 巻頭に添えられているエラスムスのトマス・モアへの手紙によると、この作品は1509年にモアの家に滞在中に書かれたもので、モアという名前のラテン語形Morusが、痴愚を意味するギリシア語のモーリア(moria)に似ていることに気づき、そこからモーリア(Moria)という女神の名を仕立て上げた。その女神が自己を礼賛するという形で展開されるのがこの作品で、「デクラマティオ」(declamatio)という当時の高等教育の標準的な科目であった修辞学の課業である架空の練習弁舌の形式をとっている。もちろん、モアという名前が「モロス」を連想させるというだけで、エラスムスがモアについて「大兄御自身がそれとはおよそ無縁な存在」(14ページ)であると書いている通り、モアは大変に聡明な人であることに衆目は一致していた。

 エラスムスはこの手紙の中でつづけて、モアが諧謔を好むことに触れて、「確かに大兄はその卓抜な知力において、はるかに衆に抜きんでておられますが、信じがたいほど心根がやさしく、また気の置けない方ですから」(15ページ)エラスムスのこのおふざけを許してくれるだろうと書き、この作品を彼に捧げている。
 つまりこの作品は、痴愚の女神の自己礼賛という形をとった冗談であるという。ただし、読んでいくとわかることだが、どこまでが冗談でどこからが本気なのかわからないところが出てくる。そういう部分を含めて「冗談」なのである。モア自身が1516年に出版する『ユートピア』にも同じように、冗談だか本気なのかわからない部分が数多く見いだされる。そういう発言が意味をもつのは、それなりの知識と教養を備えた人々の交際圏の中においてであって、世の中には冗談がわからない人がいる。まじめすぎる人がいる。モアの『ユートピア』が発表された翌年は、ルターがヴィッテンブルクで「95か条の提題」を発表した年である。ルターは、
Wer nicht liebt Wein, Weib und Gesang, Der Bleibt ein Narr sein Lebelang. (ワインと、女性と、歌を愛さないものは、生涯を通じてアホでありつづけるだろう)と言っているくらいだから、冗談のわからない人ではなかったようだが、その信奉者にはくそまじめな人が少なからずいたようである。

 ということで、これから『痴愚神礼賛』について書いていくことにするが、その前に断っておくことが2つある。1つはすでに述べたように、「冗談」といってもそれを愉しめない人もいるし、益田ミリさんの「スーちゃん」がそうだけれども、何か人の気に障ることを言っておいて、後で「冗談、冗談」と打ち消す人が好きになれないということもある。「冗談」の否定面についても考える必要があるということがその1つである。一方でお笑いが盛行し、他方で学校や職場でのいじめがなくならない世相を考えると、この作品も慎重に読まれる必要がありそうである。

 もう一つは、作者が『痴愚神』を女性として設定していることである。これも以前に書いたことがあるが、「勝利の女神」とか、「自由の女神」とかいうのは、「勝利」、「自由」という語が女性名詞であることから生まれたものである。私はギリシア語はほんのわずかしかかじったことがないので、よく分からないが、たぶん「モーリア」という語も女性名詞なので、女神にしたのであろう。(ラテン語のstultitiaは女性名詞である。) ただし、本文を読むと「なるほど女というものは愚かな動物で、たわいもない、なんとも馬鹿馬鹿しい生き物なのですが、楽しい存在に違いなく、家庭生活においては、その愚かさでもって男の陰気な気質を和らげ、楽しいものにしてくれるでしょう」(49ページ)などという箇所が出てくる。これも「冗談」だといってしまえばそれまでだが、渡辺一夫が指摘したようにルネサンスが「人間の解放」であるといわれる一方で、「女性の解放」はもたらさなかったこと、(これも以前に触れたことがあるが)マキャヴェッリの『君主論』の中の「運命は女だから。組み伏せたいと思ったら、たたきのめしてでも自分のものにする必要がある」という言葉を思い浮かべるべきではないかと思う。

 今回は、前置きばかりになってしまったが、次回から本格的な論評にとりかかるつもりである。
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