FC2ブログ

『太平記』(190)

12月25日(日)晴れ、バスの車窓から富士山が見えた。

 建武3年(南朝延元元年、1336)、近江を押さえられた比叡山の宮方が兵糧につまった頃、足利尊氏は密書を送り後醍醐天皇へ京への還幸を促した。還幸を企てる天皇を、新田一族の堀口貞満が諫めると、天皇は義貞に東宮恒良親王らを託し、引っ込区で再起を期すよう命じた。10月10日、天皇は還幸したが、直義により花山院に幽閉された。北国へ向かう義貞軍は、木目峠で多くの凍死者を出したが、13日、敦賀の金ヶ崎城に入った。脇屋義助と義貞の長男である義顕は南越前の杣山へ行き、瓜生保に援軍を求めたが、保は偽の綸旨に騙されて足利方となり、保の弟の義鑑房が義助の子義治を大将として預かることになった。

 明けて10月15日、杣山の瓜生が頼りにできなくなったので脇屋義助は金ヶ崎に帰り、義顕は越後に下ろうとしたのだが、宿で勢ぞろいをしてみると、瓜生が心変わりをしたことを聞き知ったようで、いつの間にか姿を消してしまった武士が多く、前日までは3,500余騎と言っていた軍勢がわずかに250騎に減っていた。この軍勢で多くの敵がいる北陸路を越後までたどり着くのは無謀に思われ、この際は義助とともに金ヶ崎に戻って、船で越後に向かうのが得策であろうと、結局義助も義治も鯖並の宿からまた敦賀に戻ろうとした。

 鯖並から少し南の今庄(福井県安城郡南越前町今庄)には今庄九郎入道浄慶という武士が住んでいたが、北国街道を落人が多くやって来るというのを聞いて、通さないようにしようと、近辺の野伏(農民、浮浪民などの武装集団、第9巻で京から鎌倉に落ち延びようとした六波羅探題の一行が北近江で野伏の一群に行方を阻まれたことを思い出す)をあつめて、地形の厳しい場所に鹿垣(ししがき:鹿や猪よけの垣を戦場に用いたもの)を組み立て、要害に逆茂木(棘のある木の枝で作った防御の柵)を立てて、鏃(やじり)をそろえて待ち構えていた。 
 義助はこれを見て、「これはきっと今庄法眼久経という武士の一族に違いない。久経は宮方に属して後醍醐天皇の比叡山臨幸にも付き従ったものである。その一族であれば、さすがにこれまでの経緯を忘れていないものと思われる。誰か、近づいて事情を聴いてまいれ」と言いつけたので、(群馬県太田市由良町に住んだ武士で、新田の家来である)由良光氏がその名を受けて、ただ一騎馬を進めて近づいた。〔ここで道を塞いでいる淨慶は久経の子どもである。〕

 敵も矢の届く範囲を通り過ぎて近づいてきたので、光氏は、馬を止めて、「脇屋義助殿が、合戦の相談のために杣山の城から金ヶ崎に一時的にお出かけになっているのを、おのおの方はご存知で、このように道を塞がれたように見受けられる。もし1本でも矢を射かけるというようなことがあれば、朝敵となり、どのように罪を逃れることができるとお思いであろうか。早く弓をしまい、兜を脱いで、御通しください」と声高らかに宣告する。
 今庄入道は馬から降りて、「私の親である久経は宮方に属して戦場で忠節を尽くしており、その際に目をかけていただいていることはありがたく思いますが、淨慶は父とは離れて、斯波高経殿に属しております。それで、ここをそのままにしてお通ししてしまっては、斯波高経殿からどのようなおとがめを受けるかわかりません。それで、恐れながら(形だけでも)一戦交えるようにするつもりです。これまったく私の本意ではありませんので、もしお供の武士たちの中で名の知られた身分の高い方を引き渡していただき、その首をとって、一戦したという証拠として提出して、とがめを受けないようにしたいと思います」という。〔ずいぶん手前勝手な言い分だが、これが乱世の処世術というものであろう。〕

 光氏は義助のもとに帰り、今庄入道の言うところを復命すると、義助は進退に窮した様子で思案されていたのを、傍らで聞いていた義顕は「淨慶がいうところも、もっともな点がないわけではないが、これまで随行してきた士卒は、親子よりも重要な存在である。したがって、自分の命のために彼らを犠牲にするというわけにはいかない。光氏よ、もう一度淨慶に向かって、この旨を言い聞かせてみよ。それでも難しいことを言うようであれば、やむなく、我らも士卒もともに討死して、将士ともに道義を重くし、後の世に伝えるまでだ」という。

 光氏はまた淨慶のもとに出かけて、この旨を伝えると、淨慶はなお納得せずに、時間がたつうちに、光氏は馬から降りて、鎧の上帯を切って投げ捨て、「天下のために重要な仕事をされている大将が、自分の士卒の命を大事にしてご自分の命を捨てようとされているのだぞ。まして、忠義を重んじて命を軽んずべき家来の身分として、主人の身代わりに死なないということがあっていいわけはない。どうしても首がほしいというのなら、この光氏の首をとって、大将を通していただきたい」というや否や、腰の刀を抜いて腹を切ろうとする。その忠義の様子を見て、淨慶もさすがに感動をおぼえたのか、走り寄って、光氏が刀にとりつき、「ご自害はやめてください。大将のお気持ちも、家来の方の覚悟も、理にかなっていると思いますので、淨慶がどのような罪に問われても、無情なふるまいをして道を塞ぐようなことは致しますまい。どうぞ早くお通りください」と言い、弓矢をしまい、逆茂木を引きのけて、泣く泣く道の傍らに畏まった。

 義助、義顕の両大将は、大いに感動されて、「我々はたとえ戦場の塵に没すとも、もし新田家の中で天下に号令するものが現われたなら、これを証拠として名乗り出て、この度の忠義を世に顕わせ」と、金細工の装飾をほどこした刀を抜き出して、淨慶に与えた。
 光氏は、大将の危機を見て、自分の命を捨てて護ろうとする。大将は、士卒の忠義の志を無駄にしまいと、ともに戦死しようと決心した。淨慶は、敵の義を感じて、後の罪を顧みることがなかった。それぞれに理由のある判断であったので、これを聞きみる人々は、いずれも感心したのであった。

 『太平記』の作者は、三者三様に「義」を通したことを賞賛しているが、理念と現実の折り合いをどのようにつけるかという苦心は昔も今も変わらないということのようである。両者ともに正面からの戦闘を避けているところも、注目してよいところである。宮方の有力な武将である脇屋義助・義顕が大軍を保持できず、地方の武士に行く手を阻まれて、どのように底を突破するかに苦労しているところに、兵力において劣勢である宮方の苦境が集約されているように思われる。さて、義助、義顕は無事に金ヶ崎に到着できるのであろうか。それはまた次回。 
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR