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服部英雄『蒙古襲来と神風』(3)

12月22日(金)曇りのち晴れ

 1274年(文永11)、1281年(弘安4)の2度にわたり、蒙古が日本に侵攻してきたが、2度とも日本側が防戦に勝利した。この勝利をめぐり、神風によって、蒙古が退散したという神風史観がいまだに影響をもちつづけている。「神風によって、蒙古が退散した。つまり、二度ともに神風が吹いて、元寇は決着がつく。文永の役では敵は一日で引き返し、弘安の役では嵐によって、肥前鷹島に集結していた敵船が沈み、全滅した。」(ⅰ-ⅱページ)
 ところが、事実はさまざまに違う。文永の役についてみると、1日で敵が帰国した原因とされる嵐は、その日には吹いてはいない。戦闘は1日では終わっていない。蒙古が来襲したのは、台風の襲来にはあまりにも遅い10月である(当時は太陰太陽暦が使われていたので、現在の暦に直すと晩秋か初冬である)。元軍は優勢に戦いを進めてはいたが、日本側の必死の抵抗で九州本土に拠点を確保できず、壱岐を補給拠点として戦っているうちに天候が悪化して戦闘持続が困難になったために、悪天候を理由として撤退したものと考えられる。
 弘安の役についてみると、確かに台風は来たし、沈没船も出たが、大きな被害を受けたのは鷹島に停泊していた後発の江南軍であり、先発の東路軍は博多湾にいてすでに本土に拠点を築いていた。嵐の後も2度の海戦があり、日本が勝利した結果、戦争継続を困難と判断した蒙古軍が退却したのである。

 こうした蒙古襲来の際の戦闘の実際の姿を知るための優れた史料が『蒙古襲来絵詞』である。この「『絵詞』は、合戦に参加した肥後国の竹崎季長が、戦後10年ほどを経て、絵師に描かせたものである。絵師が合戦の様子を聞きながら作成した。文字のみではなく、絵画があるところがすばらしい。700年も前、14世紀初頭という、世界にも例をみない合戦絵巻である。蒙古合戦を考えるうえで、これ以上に良質で情報豊かな史料はないといえる。」(117ページ)
 地方の御家人である竹崎季長がこのような絵巻を作成できたのか、考えてみる必要がある。絵巻は通常、高額なため、皇族、貴族あるいは大社寺しか発注できなかった。高額になった理由の一つは、墨も顔料も輸入品が使われたからである。

 竹崎(藤原)季長の本貫地を探すと、肥後には玉名郡、益城郡、阿蘇郡に竹崎という地名があることがわかる。阿蘇神社の社家である阿蘇氏の中に竹崎を名乗るものがいるが、季長が阿蘇姓ではなく、藤原姓であったことを示す史料がある。『絵詞』の中で、菊池一族と遭遇した季長がその名乗りの中で「同じきうち」と言っていることから、藤原姓を名乗っている菊池氏の一族である可能性がある。〔菊池氏は刀伊の入寇の際に大宰府の権帥としてこれと戦って撃退した藤原隆家の子孫ということになっていたが、実はその際に隆家のもとで奮戦した藤原蔵規の子孫だそうである。〕 季長の身近で戦った武士たちの出身地を考えると、玉名郡の竹崎の可能性が高いと著者は考えている。
 しかし、著者によると、玉名郡竹崎は二次的な名字の地で、本来の出自は、実は長門国竹崎であったのではないかという。季長の烏帽子親は長門守護代の三井季成(すえしげ)であり、そのことから竹崎氏が長門の有力な武士であったことが推測できる。長門の竹崎は赤間関(下関)の一部であり、重要な港のひとつであった。
 長門国豊浦郡竹崎が苗字の地ならば、なぜ肥後国玉名郡に竹崎があるのか。これは地頭として竹崎氏が移り住んだためではないかと服部さんは推測して、いくつかの例を挙げる。〔ここでは挙げられていないが、いちばん目覚ましい例は、東京の渋谷である。相模国渋谷荘は、現在の大和市を中心とする広い地域であり、桓武平氏の秩父重綱の弟河崎基家の孫重国がこの地に住んで渋谷庄司と称した。彼は平治の乱で敗れて奥州に逃れようとした佐々木秀義を自分の館に匿い、秀義の子どもたちが頼朝に仕えて功績があったことから、石橋山の戦いの際には平家方に属していたにもかかわらず、許されてその地位を保つことができた。その一族の一部が東京の渋谷に住みついたので、渋谷という。渋谷の金王八幡神社では渋谷系図を伝えているというから、一度見に行こうと思っている。この神社の前はよく通ったのだが、参拝したことはないのである。〕

 しかし、蒙古との合戦の際に季長や同行した(義兄の)三井資長の兵力は家格のわりに少ない。本領を一族なり、北条氏なり、誰かに奪われていた可能性がある。長門が本貫地で庇護が新恩地だとすると、この移動は承久の乱後、あるいは宝治合戦による三浦氏滅亡後であろう。
 地名が新たに竹崎になった理由としては、玉名郡での季長、あるいはその父、または祖父にきわめて顕著で卓越した行動力があったからではないかと想定できる。高額な絵詞を作成できたのは、それだけの財力があったからであろう。そこで考えられるのは、この一族が日宋貿易にかかわっていた可能性である。
 菊池川の川床から表面採集された陶磁器には、博多から出土する中国陶磁と同じ、優品の青白磁、また墨書土器が大量にあるそうである。九州で有数の杉の産地である小国から切り出された杉の木が菊池川を下って海岸から宋へと輸出されたと思われる。小国には鎮西探題北条氏の拠点があった。さらに阿蘇・九重・雲仙では硫黄を産出した。日宋貿易を志向していた北条氏はこれらの産出地をその支配下におさめていた。

 菊池氏は蒙古襲来前後には鎌倉・北条実時家と深い交流があった。北条実時は金沢北条氏で、一族の中でも特に日宋貿易に積極的な家であった。金沢北条氏の顕時は安達泰盛の娘を妻にしており、両者は連携関係にあった。竹崎氏の財力と、並びに同族で中央政界とも結びついていた菊池氏の財力の由来は、大陸に至近の九州西部に基盤があること、木材、場合によっては硫黄をも宋に輸出できたことにあったと著者は考えている。
 竹崎氏は海洋性を特色とする武士団であったことがわかる。交易に依存する場合と違って、収入の変化が大きかったと思われる。おそらくは、思わぬ臨時収入があったことが絵詞作成の直接の動機であったと考えられる。絵詞では菊池一族の存在が強調されているが、あるいは菊池一族からも作成のための費用を出してもらっていたのかもしれないという。

 このあたり、鎌倉時代の武士たちの経済的基盤の一端が明らかにされていて興味深い。菊池氏はこの少し後の南北朝時代には後醍醐天皇方として活躍することになるが、もともと1285年(弘安8)の霜月騒動で殺害された安達泰盛派であったというのは納得のいくところである。海洋性の武士団ということから、同じく後醍醐天皇方として活躍した名和氏が山陰の海上交易に携わった武士ではないかと言われていることを思い出した。安達泰盛は、この後の第5章で詳しく内容が検討される『蒙古襲来絵詞』にも登場するので、ご期待ください。
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