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前田速夫『「新しき村」の百年 <愚者の園>の真実』(4)

12月21日(木)晴れ

 <新しき村>は1918年(大正7)11月14日に武者小路実篤の主唱により、宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城に土地を求めて始められた共同労働と余暇における個性的活動の結合により新しい社会の実現を目指す共同体運動であり、1939年(昭和14)にその本拠地を埼玉県入間郡毛呂山町葛貫に移して現在に至っている。
 村の創設の背景をなしているのは雑誌『白樺』を中心に展開された理想主義、個人主義的な考え方と、1918年に全国に広がった「米騒動」をはじめとする社会不安に際して社会改造への機運が高まっていたことである。
 村の運動は、『白樺』派の同人をはじめ多くの支持・賛同を集めて始められたが、社会主義者や無政府主義者からはその理想には共感しても、方法論的には肯定できないという批判が寄せられ、さらに文壇やジャーナリズムからもその非現実性についての批判を浴びた。〔それ以上に官憲からの猜疑や干渉、世人の無理解や警戒の方が重大な問題であったと思われる。〕

 <新しき村>について、もっとも真摯な対応を寄せたのは、『白樺』の同人の一人で武者小路の兄貴格であった<良心の作家>有島武郎である。有島には「武者小路兄へ」と題する書簡体の文章があり、そこでは新しき村によって実際生活の改造に着手したことを賞賛しながら、この企ては失敗に終わるだろうと予見している。有島は中途半端に妥協して成功するよりも当初の趣旨を貫いて失敗することの方が意味があるというようなことを述べているのだが、武者小路は早とちりの反論をしてしまった。有島はこの4年後に彼自身が試みることになる北海道狩太(現・ニセコ町)の有島農場を無償で小作民に譲り、彼らの共有農場にするという企ての構想を抱き、それだけでなくそれが失敗に帰することも見通しており、その覚悟を武者小路に吐露していたのであると前田さんは論じている。有島の企ては彼の予想通り失敗するが、「村」は武者小路の図太さのために生き延びることになる。

 開村当初の村は自活からほど遠い状態(経費はほとんど武者小路が負担し、残りは寄付で賄った)であったが、その生活ぶりは暢気なものであった。1日8時間(のちに6時間)の義務労働を終えると、自由時間でレコード鑑賞、絵画制作、創作などに宛てられ、テニスや演劇活動なども行われた。こうした文化的な活動を通じて、地域の人々の交流も進むようになったが、その一方で村の規模の増大に連れて、内紛が生じる。若い独身の男女が多いことからややこしい関係が持ち上がったり、村のために一生懸命に働こうとする連中と出来るだけ自由時間を持ちたいという連中との対立も生じる。
 「その後も人の出入りの激しいのが新しき村の特徴で、離村の理由は家庭の事情、失恋、挫折、病気、失望と、人によりさまざま。個人的な事情もさることながら、根底に労働派・芸術派の対立がわだかまっていて、その後も折に触れて噴き出した。このことは、共同の生活において、理想と現実とはそうやすやすと一致できるものではないことを改めて教えてくれる。」(64ページ)

 村の生活(と武者小路の思想)の積極的な面として、反戦・反差別が挙げられる。「新しき村」には、視覚障害者、ハンセン病患者、被差別部落出身者、朝鮮人も住んでいて、何ら差別もなかったという。武者小路は、村の開設に先立つ1915年に、台湾で起きた反日蜂起(西来庵事件)への処罰として台湾人800人の死刑判決が下ったのに激しく抗議した。
 魯迅の弟である周作人が「新しき村」を訪問したのは1919年のことで、彼は、自国の『新青年』誌上で新しき村を紹介し、北京に支部を創設する。兄の魯迅は武者小路の戯曲「ある青年の夢」を翻訳し、陳独秀、毛沢東、周恩来らもそれを読んだと言われる。この作品には武者小路の反戦の思想が強く投影されている。彼はおそらくトルストイに影響を受けたものと思われる。彼は1919年には、その前年のシベリア出兵を批判し、その後も日米開戦をあおることの危険を警告した。〔しかし、その後、日米戦争に協力している。トルストイは陸軍将校としてクリミア戦争の最大の激戦地であったセヴァストーポリの要塞をめぐる戦いに参加しているが、武者小路にはそういう経験はない。最初の近代戦といわれるクリミア戦争を体験したトルストイと、従軍体験のない武者小路では平和主義といってもその性格が違ってくるのはやむを得ないことかもしれない。〕
 フランス留学中にバルビュスの「クラルテ」運動の感化を受けて帰国した小牧近江は武者小路のこのような姿勢に感激して、彼の協力を要請しているが、武者小路は自分は団体運動に入らないことにしていると言って、自分よりも有島武郎の方が適任であると述べたという。〔前回、「村」の賛同者の1人であった金子洋文が『種蒔く人』の創刊にかかわったこ徒が紹介されていたが、小牧近江も『種蒔く人』にかかわったことに触れていないのは奇妙である。〕

 武者小路は「自我」を第一に尊重する一方で、「人類」という言葉をよく口にした。彼にはコスモポリタン的な志向があったことは事実で、村でも村内会員の1人である木村壮太を講師としてエスペラント語の学習会が行われたりした。3年目に初めて陸稲がとれ、隣の川南村萱根(けね)に「第二の村」ができる。東京池袋郊外には、新しき村出版部として、曠野(あれの)社が設立される。離村者が出た一方で、新たに加わる人々も出て、人数はかえって増えている。
 このような中で、例えば広津和郎のように「新しき村」に新たに共感を示す人々も出現する。広津は1923年に芸術社を創立し、初の『武者小路実篤全集』の発行を手掛ける。
 1925年には新しき村出版部から、ドイツのレクラム文庫にヒントを得た武者小路の発案で「村の本」の刊行が始まる。「吾人は範をかのレクラム文庫にとり」という岩波文庫の創刊に2年先立ってのことであり、『白樺』派の人々の著作に加えて、小林秀雄の翻訳によるボードレールの『エドガー・ポー』が含まれているのも注目されるところである。

 このように、問題を抱えながらも着実に発展しているかに見えた「新しき村」ではあるが、その後、さらなる問題に直面することになるのは、次回以降に述べることにする。
 木村壮太の実家である牛鍋屋「いろは」(チェーン)には、『白樺』関係者もよく足を運んだのではないかと思われるのは、高村光太郎によるこの店の様子をうたった詩がある(光太郎の作品の中では私の一番好きな詩である――食い気が抜けない⁉)からである。
もっとまじめな話をすると、一海知義先生は光太郎の「ぼくの前には道はない…」という詩と、魯迅の「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」という短編小説「故郷」の結びのことばの類似性を指摘されているが(似ているけれども、光太郎はあくまで「ぼく」という個人を前面に出しているのに対し、魯迅の場合は「歩く人」が複数に設定されているところに思想的な違いがあると、私は思う)、魯迅が光太郎の詩を読んでいたことは十分にありうる。
 また、魯迅と同じような趣旨のことを、スペインの「1898年の世代」と呼ばれる思想家群の1人である詩人のマチャードが書き留めているという指摘もあって、『白樺』、『新青年』、「1898年の世代」の3つの思想・文学運動に通底する何ものかがあるのではないかというようなことも考えているわけである。

 もう一つ、考えていることを書いておくと、有島武郎の「ひとふさのぶどう」とベラ・バラージュの「ほんとうの空色」という2つの児童文学作品にも、自分の描き出したい色が描けないので、友達の絵の具を盗むという共通のモチーフがあって、この両者の比較も意味があるのではないかと思うのである。

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