FC2ブログ

小川剛生『兼好法師』(3)

12月19日(火)晴れ

 『徒然草』の作者である兼好法師の履歴については、京都吉田神社の神官を務めた吉田流卜部氏に生まれ、村上源氏一門である堀川家の家司となり、下級の公家として朝廷の神事に奉仕し、その後、堀川家を外戚とする後二条天皇の六位蔵人に抜擢され、五位の左兵衛佐に昇り、鎌倉幕府・室町幕府の要人と交流したという説が広まっていた。しかし、この書物の著者は、勅撰和歌集における「兼好法師」という作者表記から、彼が下級の公家であったはずがないということをはじめとして、同時代の史料を精査した結果からこの説に異論を唱えている。(『方丈記』の作者は、神官の家柄の出身で下級貴族であり、勅撰和歌集では鴨長明と表記されている。決して「寂蓮法師」ではない。)
 兼好は、卜部兼好と言い、仮名(通称)は四郎太郎で、伊勢神宮と関係のある卜部氏の一族の出身であったと推測される。金沢流北条氏が伊勢の守護であったことから、関東に移り住み、金沢流北条氏の当主であった貞顕に仕えて、京都と鎌倉・金沢の間を往復する連絡係であったものが、貞顕が延慶2年(1309)に六波羅探題北方に任じられた際に、京都に定住するようになったらしい。京都では東山に住み、六波羅の近辺で活動していたようである。

 京都における兼好の生活を考えるうえで、興味深い手掛かりとなるのが『徒然草』第124段に登場する是法法師であると小川さんは述べる。『徒然草』には彼の姿が「浄土宗に恥ぢずといへども、学匠を立てず、ただ明暮(あけくれ)念仏して、やすらかに世を過ぐす有様、いとあらまほし」(浄土宗の立派な僧侶であったが、その学識をひけらかすことなく、ただ朝晩念仏して、安らかに世の中を送っている様子は、かくありたいと思うようなものであった)と記され、兼好は彼に対する賞賛を惜しまないようである。ところが、彼は実はいわゆる土倉で敏腕の経営者であった。寺社に金を貸したり、その土地の代官として年貢の取り立てを行ったり、自らも土地を買い求めたりしていたのである。そして兼好自身も是法ほどではないにしても、洛中洛外に複数の不動産をもっていたことは確実である。

 彼が正和2年(1313)に山城国(山科)小野荘の名田一町の土地を買い求め、その土地を元亨2年(1322)に龍翔寺という禅院に売却したことは文書が残されていて確実な事実である。90貫で買い求めた土地を、30貫で売り払ったのだが、龍翔寺は当時の治天の君(政治を行う上皇)であった後宇多院の庇護を受けていた寺であり、兼好は後宇多院の関心をひきつけようとこの挙に及んだと考えられる。実際に、後宇多院はこの頃、兼好の詠み草を召されたのである。これは彼の事実上の歌壇デビューであった。

 今ひとつ、注目されるのはこの龍翔寺が兼好および『徒然草』ゆかりの地として知られる双ヶ丘から南に500メートルほどの距離にいあることである。兼好は六波羅近辺からこの地域、つまり御室仁和寺の圏内に活動の拠点を移していったようである。

 仁和寺は光孝天皇治世の年号をとった勅願寺である。延喜4年(904)宇多法皇が南御室に住まわれて以後、館長である門跡は後続出身者に継承され、「御室」が別称となり、もっとも格式の高い門跡として発展する。この一帯には仁和寺の子院やその他の寺院、皇族や公家の別邸が点在していた。双ヶ岡の東には双池があり、いわば高級分譲別荘地のようなものであった。この一角に兼好も別業を構えていたと思われる。仁和寺の近くに住んではいるが、内部の人間ではない。「「仁和寺の法師」へのシニカルな、距離を置いた観察もまたよく理解できるのである。」(83ページ)

 この地域と兼好とのかかわりには、金沢流北条氏との旧縁が作用していた。貞顕の庶長子顕助が仁和寺真乗院に迎えられて8代目の院主となり、以後京都の密教界で活動する。兼好はこの顕助に随従するような立場であったことは、『徒然草』238段第6条からうかがわれる。また60段に芋頭が大好物の盛親僧都が登場するが、この奇人も真乗院に属していた。また83・84段の弘融僧都も一時は真乗院に住んだ学僧であった。

 さらに、兼好と堀川家の縁が生じるのも、彼が出家後の正和年間の後半、真乗院と金沢貞顕を介してのことであったと考えられるという。ある事情から貞顕の娘を堀川家に迎えるという話が出てきて、その交渉を通じて、それまで貞顕・顕助に随従していた兼好が堀川家にも出入りするようになったと考えられる。『徒然草』138段第2条は、皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)の御所に祇候する堀川具親のもとに「用ありて参りたりしに」、具親が論語の「紫の朱を奪うを悪む」という句の所在する巻を探しあぐねていて、見事その役に立ったという話である。尊治が即位するのは文保2年(1318)のことであるから、それ以前のことと考えられる。

 このように説いて小川さんは、兼好が堀川家、あるいは後二条院との関係で詠んだ歌なども参考にしながら、堀川家に常勤する家司であったわけではなく、「遁世者」として出入りしていたのであって、「主従関係は比較的緩やかなものではなかったか」(と93ページ)と述べている。〔人間関係を整理すると、後宇多院が父、後二条院と、尊治親王(後醍醐天皇)がその子どもで、後二条院が兄、尊治が弟ということである。〕 こうして、当時30代であったと思われる兼好は、六波羅探題であった貞顕の影響力を背景に、人間関係を広げていったが、それでも依然として公・武・僧を隔てる壁は高かったと小川さんは記す。実際問題として、この後、兼好はどのように活動したのであろうか、というのは次回。

 仁和寺のように年号を寺号とする寺院としては延暦寺、建仁寺、建長寺、寛永寺などが思い浮かぶが、ほかにもあるかもしれない。永観という年号はあるが、京都の永観堂(禅林寺)はそれとは関係がないというような例もあって、なかなか面倒だが、どなたか詳しくご存知の方がいらっしゃればご教示をお願いしたい。 
スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR