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『太平記』(189)

12月18日(月)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月、後醍醐天皇は足利尊氏の申し出に従って京都に還幸しようとしたが、その際に新田義貞に東宮である恒良親王を託し、北国で再起を期すように命じた。10日、京都に到着した天皇は、花山院に幽閉された。北国に向かう義貞軍は、木目峠で多くの凍死者を出したが、13日、敦賀の金ヶ崎城に入った。その後、大軍を一か所にとどめおくのは戦略上不都合であるとして、義貞の子義顕に2千余騎をつけて越後に向かわせ、弟の脇屋義助には千余騎を付けて瓜生(越前市瓜生町に住んでいた豪族)一族の杣山の城(福井県南条郡南越前町阿久和の山に築かれていた城)へと遣わすこととなった。金ヶ崎城が攻撃された際の後詰めとして働く援軍を求めてのことである。

 10月14日、義助、義顕は3千余騎を率いて、敦賀の津を発って、まず杣山へと向かった。杣山の城を本拠とする瓜生判官保、その弟の重(しげし)、照(てらす)の兄弟3人が、一行をもてなすためにさまざまな酒肴を運ばせて、鯖並(さばなみ、南条郡南越前町鯖波)の宿へとやってきた。兄弟はさらに5,6百人のものに兵糧を持たせて、義助たちの率いている軍勢に食事を与え、一生懸命に一行をもてなす様子は、まったく他心など持っていないように思われたので、大将も士卒も彼らを頼もしく思ったのであった。
 岩波文庫版の脚注に瓜生氏は嵯峨源氏であると書かれている。嵯峨源氏を名乗る一族の特徴は一字名を付けることで、この3兄弟もすべて一字名である。判官というのは検非違使判官で、源義経と同じ役職である。
 北陸本線に鯖波という駅があり、鯖波の宿というのもそのあたりのことと考えられる。越前(福井県)にはほかに鯖江という地名もあるが、ここで「鯖」というのは魚ではなく、「さんばい」の略で、田植え祭り、田んぼの神を意味するものと考えられている。

 献杯が順に下位のものに回って後、義助が飲んでいた盃を、瓜生判官に差す。判官が席を立って盃を3度傾けると、義助は彼に白幅輪の太刀(柄・鍔・鞘の縁を銀細工で飾った太刀)と紺糸で縅(おど)した鎧一両を与えた。瓜生は大いに面目をほどこしたのである。その後、新田一族とそれ以外の軍勢の人々があまりにも薄着であることをいたわしいと思い、とりあえず小袖を一着ずつでも仕立てて差し上げようと、倉の内から絹と綿の布を取り出し、急いでこれを裁ち縫わせたのであった。

 このようにしているところに、足利一族で越前の守護である斯波高経の方から、ひそかに使いが派遣され、先帝からのお言葉で、義貞の一族を追罰すべきであるという綸旨が発せられたと伝えてきた。瓜生判官は、これを見て、もともと心に深い思慮のある人物ではなかったので、これが足利方の謀略による偽文書であるとは気づくことなしに、勅命で勘当された武家方の敵に味方して大軍を動かすことになっては、天罰を受けないとも限らないと、たちまち心変わりをして、杣山の城へ戻って、木戸を閉じて新田勢との接触を断ってしまった。

 さて、判官の弟に義鑑房という禅僧がいて、鯖波の宿にやってきて、次のように述べた。「兄の保はどうも馬鹿なもので、尊氏が天皇に無理強いして発行させた命令書を、天皇の真意と誤解し、たちまちに心変わりをしてしまいました。義鑑がもし武士であれば、刺し違えてともに死ぬべきところではありますが、出家の身であり、殺生は仏のお禁じになっているところなので、黙っていなければならないのが悔しいところです。とはいえ、保が事態の推移を慎重に見守り、説得に応じるようなことがあれば、最終的には味方にならないとも限りません。そこで、義貞・義助のご子息は大勢いらっしゃるので、そのうちのお一人をここに留め置くことにしてください。 義鑑が懐の中に入れてでも、衣の下に置いても匿い続けますので、時機が来れば、挙兵して金ヶ崎の後詰をいたしましょう」と、言葉も途絶え途絶えになりながら、涙をはらはらとこぼしていたので、義助と義顕はその様子を見て、噓を言っているとはないだろうと、疑いの心を起こさなかった。

 そこで席を近づけて、こっそりと次のように打ち明けた。主上が坂本をご出発になった時、尊氏がもし約束を違えるようなことがあれば、止むをえず、義貞追罰の綸旨を出すということがあるかもしれない。義貞が一時的にでも朝敵の汚名を着ることがあってはならない。そこで、東宮に天子の位を譲って、天皇としての政務を任せるつもりである。義貞は、その手足となる家臣として、天皇の政治が再び行われるようにする功績をたてよとおっしゃられた。そして、三種の神器を東宮にお渡しになったので、たとえ後醍醐天皇の綸旨があると尊氏が言ったとしても、詳しい事情を知らないにせよ、思慮ある人であれば、前後の経緯から信じるに足りない話と思うだろう。ところが、判官がこの是非について迷っているのであるから、詳しい事情を話すに及ばない。(杣山に拠点を築くことができない以上、義助は)急いで、また金ヶ崎に帰るつもりである。事態が困難になっている時に、お前ひとりだけが兄弟のよしみを変じて、忠義を示すことは、ありがたく思う。心強く頼もしく思うので、息子の義治を託したいと思う。彼の今後のことは、よいように計らいなさい。そして、脇屋義助の子の義治が、このとき13歳になっていたのを、義鑑房に預けたのであった。

 義治は義助の子どもたちの中でも特に年少であったので、義助は片時なりともそばから離さず、大事に育ててきたのであるが、そば仕えの若い従者の一人もつけずに、見知らぬ人に預けて、敵の中に留め置くことになったので、別れるのも悲しく、いつまた再会できるかもわからぬまま、別れたのであった。

 もともと宮方が劣勢であるのは、兵力が武家方に比べて少ないからであって、それをさらに分けて、北国に派遣するというのは拙劣な戦略である。しかも越前には足利一族の有力な武士である斯波高経が勢力を築いている。新田義貞の軍の前途は多難である。瓜生というのがもともと越前の地名に由来するというのは『太平記』で初めて知った。瓜生一族は嵯峨源氏の流れをくむ由緒のある家柄のようである。
 余計な話だが、嵯峨源氏で一番有名なのは源頼光の四天王の一人で、『太平記』でもその鬼退治の説話が紹介されている渡辺綱(実在しないという説もある)の流れを汲むという渡辺氏である。渡辺の場合も、『平家物語』に登場する渡辺競のように一字名を付けることになっていたが、徳川家康の配下の武士で槍半蔵と言われた渡辺守綱のように、後世は二字以上の名を付けるものが多くなってきている。私の友人・知人にも渡辺姓の人は多いが、一字名の人の方がむしろ少ない。
 それから、サバで思い出したのだが、横浜市の西の方を流れている境川の流域にはサバ神社という神社が多い。これはもともと田の神を祭る神社だったものが、サバ=左馬ということから、左馬頭であった源義朝(頼朝の父)を祭る神社になっていると考証されている。  
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