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服部英雄『蒙古襲来と神風』(2)

12月15日(金)曇り、一時晴れ

 文永11年(1274)冬と、弘安4年(1281)夏から秋の2回にわたって、クビライの支配する蒙古(元)が日本を攻撃した(元寇:文永の役、弘安の役)。この時2度とも「神風」が吹いて日本は勝利することができたという人々がいる。この考えは池内宏(1931)『元寇の新研究』以来定説化してきたが、この研究は史料を洗いなおすことでこの通説を批判している。
 元が日本を攻撃したのは、当時の日本が火薬の原料となる硫黄の産出国であり、その硫黄が元と敵対する南宋に輸出していたからで、その主な産地である九州を確保するために、地方の政治的な中心である大宰府を目指して、九州北部に来寇したと考えられる。
 文永の役に動員されたのは主として高麗の兵であり、その数は通説が主張してきた数よりは少なかったと推測されるが、日本側に比べて数においては勝っていた。しかし、陸上に拠点を築くことができず、兵站・補給の問題点を克服できなかった。10月20日の激戦の後、蒙古軍は10日余り日本に滞在し、作戦を継続、24日には大宰府まで攻め寄せたが、日本軍の反撃のために決定的な勝利を挙げることができず、天候の悪化という条件も加わって退却したものと考えられる(季節から見て、台風ではなく冬の低気圧の影響である。嵐の到来が作戦継続中のことか、撤退中のことかについてはたしかな判断材料がない)。したがって暴風のため一日で退却したわけではない。

 以上が第2章までの概要で、今回は弘安の役の経過を述べる第3章についてみていく。服部さんは弘安の役に関しても、定説には不自然な点が多いという。
 弘安の役において元軍は、東路軍(高麗軍)と江南軍(旧南宋軍)の2手に分れて来襲したが、まず東路軍は5月3日に朝鮮半島南海岸の合浦を出発、通説では19日かかって対馬についたとなっているが、これはいかにも不自然でその日のうちに対馬に到着し、8日ごろまでに対馬全島を掌握したと考えている。その前後の例をみても、朝鮮半島から対馬に渡るのには必ず1日で渡海している。
 さらに池内説では7月に鷹島(長崎県)に全軍が終結したとしているが、服部さんは東路軍は既に5月に志賀島(福岡県)に拠点を築いていたとみている。それは高麗側の記録にある「日本世界村大明浦」をどこに否定するかの問題で、池内は対馬の佐賀であるというかなり根拠薄弱な説を採用しているが、既に江戸時代に松下見林が志賀島であると説いているし、大宰府に近い志賀島を高麗軍が占拠・死守したのは戦略上も合理的であるというのである。

 5月26日、蒙古・高麗軍は志賀島に上陸し、ここに陣地を築く。陣地を築いていたことは『蒙古襲来絵詞』の描写によって確認できる。日本側は直ちに奪回行動に移ることはできず、動き出したのは6月初旬になってからのことであり、6月8日には両軍の間で烈しい戦闘が展開された。日本側は圧倒的に有利な蒙古・高麗軍に対抗するためにゲリラ戦、夜襲を多用した。
 蒙古・高麗軍はさらに長門にも押し寄せた。志賀島を占拠したとはいうものの、九州本土に上陸できなかったために、対馬・壱岐から補給を受ける必要があったので、日本側は息を攻略して相手の補給路を断つ作戦に出た。6月末から7月初めにかけてのことである。この戦闘は日本側も元の側も自分たちが勝ったように記録しているので、真相はわからない。

 ところがこれまでの東路軍に加えて、西方から江南軍が日本に来襲した。こちらは6月18日に舟山(中国の東海岸にある寧波の沖にある島)を出発し、25日ごろには日本の五島列島に到着、7月初めに平戸島、15日ごろに鷹島に到着したものと考えられる。ここで、東路軍が鷹島に移動して江南軍に合流したとするのが通説であるが、大宰府に近く、有利な根拠地である志賀島を東路軍が捨てて西に向かうというのは合理的な選択とは思われないという。

 ここで日本の暦では閏7月1日、元の暦では8月1日に台風が来て、鷹島沖に停泊していた艦船が沈没した。志賀島の東路軍も高島の江南軍も被害を受け、都の貴族たちは神のおかげであると喜んだが、日本でも民衆に大きな被害が出たことを日蓮のような人は見落とさなかった。1日の暴風を受けて、日本側は5日に博多湾総攻撃、7日に鷹島総攻撃を行った。激しい戦闘が続いたが、元軍は退却した。東路軍の被害は少なかったが、老朽船が多かった江南軍の被害は大きかった。捕虜となった高麗人体で殺されたものは少なく、むしろその技能を評価されて日本に留まり、活躍した者もいた。さらに弘安の役が終了して11年が経過した正応5年(1292)には高麗国王から捕虜の待遇に対して感謝する内容を含む国書が「日本国王殿下」あてに届いている(本題に関係がないから、服部さんは深く掘り下げていないけれども、この時点で、日本の最高権力者が「治天の君」(政治を行っている天皇または上皇)であると考えられていたことは重要である)。

 「弘安の役」の過程については、最後の方の戦闘の記述があまり具体的でないという問題がある。これは信頼すべき史料が乏しいということもあるのだろうが、やや残念である。第4章では、服部さんが最も重要な史料であるという『蒙古襲来絵詞』の「主人公」である竹崎季長について語られ、第5章では『蒙古襲来絵詞の』具体的な分析が展開されるので、そこでどこまで戦闘の実際がたどられているかを見ることにしよう。 
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