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前田速夫『「新しき村」の百年 <愚者の園>の真実』(4)

12月14日(木)晴れ

 「新しき村」は1918年(大正7)11月14日、宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城において誕生し、県のダム工事のために村の土地の3分の1が水没することになったため、1939年に埼玉県入間郡毛呂山町にその主力を移し、現在に至っている。その主唱者である武者小路実篤は、『白樺』の中心人物として個人主義、理想主義的な文学、芸術観を展開してきたが、共同の労働と、各人がそれぞれの個性を伸長させるために自由に過ごす余暇を組み合わせた共同生活の実践を提唱、「新しき村」はその実現の場であった。

 「新しき村」が『白樺』派と武者小路の世界観を現実の実践に移す社会的な実験であったことは間違いないが、その一方で、「実篤が新しき村の創設に乗り出し、多くの賛同者や共鳴者を得たについては、…当時の社会情勢が影を落としていたことを無視できない。」(48ページ) 1918年の7月には米価の暴騰に苦しんでいた民衆が米の廉売を要求して各地で米屋・富豪邸・警察などを襲撃する米騒動が起きていた。
 「新しき村」に集まってきた人々の中には、後にプロレタリア文学の先駆となる雑誌『種蒔く人』の創刊者の1人となる金子洋文(考えてみると、ミレーの「種蒔く人」という絵は、『白樺』とプロレタリア文学の両方に共通する感情をこめているように思われる)、農民運動家で後に社会党の国会議員となる淡谷悠蔵(そういうことよりも、淡谷のり子の叔父であったことで知られる)など、左翼系の社会改革を目指す人々がいたかと思うと、後に浜口雄幸首相を狙撃した佐郷屋留雄のような右翼的な人物もいた。

 既に触れたが、武者小路はトルストイに心酔した時期があり、トルストイの影響のもと田園で「美的百姓」の生活を送っていた徳富蘆花や、同じく農耕に従事しながら思索にふけった江渡狄嶺のような人物を訪問したり、『平民新聞』を購読したりした前歴がある。

 1919年(大正8年)に、雑誌『改造』が創刊されたことに象徴されるように、社会不安を背景に、日本社会を改造しようとする動きが強くなっていた。その中で武者小路は1917年の(階級闘争により樹立された)ロシア革命の精神とは離れ、また、トルストイの禁欲主義とも決別して、新しい精神による理想郷の創設を目指していた。
 「新しき村」の会員には第一種会員(現在の村内会員)と第二種会員(村外会員)があり、第二種会員には誰でもなれるが、第一種会員には会の精神を実行できると認められたものだけがなれるとした。この点が特色である。また、「村の会員はお互いに命令することができない」ということが、村の出発以来、ずっと鉄則として貫かれている点も注目される。

 当時33歳であった武者小路が「新しき村」のために購入した土地は宮崎県児湯郡木城村大字石河内字城(現・児湯郡木城町)の私有地の一部であった。県のほぼ中央に位置する山村の北端で、当時は日豊本線が開通していなかったので、交通はきわめて不便であった。村の創立時に参加していた最初の入植者は、武者小路夫妻はじめ大人18人、子ども2人、家族数3、すぐに村の建設が始まったが、農業経験者は1人だけで、土地はやせ、虫害が多く、水の便が悪いという悪条件が幾重にも重なる中での出発である。

 初期の創作で大いに注目されていた武者小路が、その順風満帆だった文筆活動をよそに、鳴り物入りで始めた「新しき村」が早くもつまずくのを知って、世間からの嘲笑が向けられるようになった。大方の人間は、この無謀な試みを内心冷笑していたからである。
 堺枯川(利彦)、山川均、河上肇ら社会主義者や、大杉栄らアナーキストの立場は、ブルジョワ社会の不正を否定し、新たな理想社会をつくろうとするその意図には賛同できるが、現実の階級闘争を避け、ユートピアを夢見るのは、過去の空想社会主義者の轍を踏むものであるというものであった。
 と、前田さんは書いているが、エンゲルスが「空想社会主義」、「ユートピア」と書いたものが、トーマス・モア以来の「ユートピア」文学の伝統よりも、「千年王国」と言われる民衆運動の精神に近いのではないかと思っている。その点についての日本の社会主義運動の理解はあまり十分ではないと思っているのである。

 社会主義者たちの多少は同情の混じった批判に比べ、文壇は懐疑的で底意地悪く、ジャーナリズムはさらに露骨で辛辣な批判を加えたという。菊池寛は「「新しき村」なんて、人気取りの為の奇行ですな」(57ページ)とその小説の中に登場する人物に言わせている。菊池は、この後安部磯雄の率いる社会民衆党から選挙に立候補したことがあり、現実的な社会改革の積み重ねをよしとしていた。もっとも太平洋戦争が終わった後で、菊池も武者小路も公職から追放されたことも付け加えておく必要がありそうだ。
 さらに引用されている「白樺派の坊ちゃんが、其の労働論を以て、天下を指導せんとするなどは、世間知らずにも程がある」(同上)という若宮卯之助の批評はさらに悪意に満ちている。
 現在の時点から振り返っていえることは、(もっと豊かな土地を探すべきであるとか、会員を慎重に選抜すべきであるとか、準備期間を設けて、農業について勉強すべきであるとかいう)もっと具体的で建設的な批判が出来なかったのかということである。実は、そういう批判がなかったわけではない。

 前田さんは、この後、有島武郎が武者小路によせた書簡体の文章を取り上げているが、これは重要な内容を含んでいるので、次回に取り上げることにしたい。
 むかし、『東京新聞』の夕刊に「大波小波」というコラムがあり、気鋭の評論家たちが匿名で文壇の動きをめぐり論陣を張っていたが、その中で、「新しき村」の歴史は、日本共産党の歴史と同じくらいの価値があると書いたものがあったような記憶がある。「新しき村」が個性尊重や、「お互いに命令することができない」という原則を掲げて存続してきたことは、確かにそういう評価に値すると思うのである。
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