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小川剛生『兼好法師』(2)

12月12日(火)晴れ

これまでの内容
 『徒然草』の作者である兼好法師の実像を同時代史料からできるだけ多くの情報を引き出すことで、明らかにすることがこの書物の狙いである。従来の通説の誤りを正し、彼の公・武・僧の庇護者との関係や活動の場を正確に再現しようとしている。【はしがき】
 勅撰和歌集における作者表記がすべて「兼好法師」であることから、彼の出自が諸大夫ではなくて侍品であったことが推測できる。またこのことから、彼が武家権力者に奉仕する一生を送っていたと考えて無理はない。彼は一時卜部姓を名乗ったこと以外、その家系や生国についての正確な情報はないが、卜部氏で伊勢神宮とかかわりを持った一族から出たと考えられる。【第一章 兼好法師とは誰か】
 金沢文庫の古文書の整理・分析から若いころに金沢北条氏に仕えていた兼好についての情報を得ることができる。彼は仮名を四郎太郎と言い、金沢貞顕に仕えて金沢北条氏の菩提寺である称名寺の長老劔阿との連絡係として京都と鎌倉を往復していたが、延慶2年(1309)から正和2年(1313)の間に出家し、俗名をそのまま法名にして兼好と名乗った。そして六波羅探題となった貞顕に従って京都に定住することになった。【第二章 無位無官の「四郎太郎」――鎌倉の兼好】

 今回は、第3章の前半を取り上げる。

第三章 出家、土地売買、歌壇デビュー――都の兼好(一)
 『徒然草』第50段は「応長のころ、伊勢国より、女の鬼になりたるを率(い)てのぼりたりといふことありて」と書き出されているが、ここに書き留められたできごとは、洞院公賢の日記『園太暦(えんたいりゃく)』によって応長元年(1311)3月のことであると確定できる。彼はこの時期、東山に居住していて、この騒動を目撃したという。
 兼好がこの時期、京都(現在の京都市内ではあるが、当時は洛中とは考えられていなかった)の東山に住んでいたのは、金沢流北条氏との関係からと推測できる。延慶2年(1309)正月に貞顕は六波羅探題南方を辞したが、翌年6月には六波羅探題北方に再補された。それに伴って兼好も六波羅の近くに定住したものと考えれる。
 以降、兼好の活動は、若干の空白期間はあるが、ほぼ京都において展開する。その姿は「市中の隠」というよりも「侍入道」というのが正確なところで、公家・武家・寺院にわたり幅広い知己を有して活動し、経済的な基盤にも支えられた、清貧とはほど遠い生活ぶりであった。「法師は人にうとくてありなん」どころか、人と人との間を泳ぎながらあちこちに出没していたのである。

 鎌倉幕府の六波羅探題府は平家の六波羅殿であり、鴨川の東、六条大路の末にあたるこの地は、「武家政権の本拠地」と認められ、鎌倉幕府が承久の乱後に継承し、探題府を置いた。領域は拡大し、南は七条に接し、北は五条に及んだという。この章の扉のページに六波羅周辺の地図があるので、それをみれば大体の見当がつく。この時代、そうはいっても、六波羅はあくまで市外であった――市中は公家のものとする考えは根強く、南北朝時代まで武家はなかなか市内に邸を構えようとしなかったのである。

 探題は鎌倉から被官を同伴する一方で、京都でさまざまな人材を求め、有能なものを新たに登用した。鎌倉時代の終わりになると、六波羅評定衆・奉行人などの地位は世襲による特定の家柄の固定化・形骸化が進んでいたので、京都の事情に通じ文筆能力に秀でた人材を登用することが実務のためには必要であった。兼好のような出自・身分とも曖昧な存在はかえって重宝であったと考えられる。

 著者はこのような六波羅の政治的な意義だけでなく、この地が東と西の人間、鎌倉の武士と京都の文士の交差同居する空間として、文化的に新しい創造の場となっていたと指摘する。鎌倉時代に成立した説話集である『十訓抄』の作者は六波羅探題の悲観であったとも考えられ(『十訓抄』と『徒然草』にはテーマや題材で重なる部分があるとの指摘もある)、この時代の武士たちの中にはその歌が勅撰集に入集するものもいたという。

 また、「六波羅の南北、白河・祇園・清水・今熊野にわたるこの一帯が、洛中と区別されていたことは、政治的のみならず、経済的・宗教的な特色からも知ることができる。」(65ページ) 
 まず東山からの眺めを愛した詩人・歌人たちがこの地に別荘を建てたり、隠棲したりしていた。また平安時代から脱俗の聖たちの道場も多く建てられた、その一方で、鎌倉時代になると商業金融の一拠点となる。例えば祇園社近辺は酒屋・土倉(金融業者)が軒を連ね、繁華を誇った。祇園社は延暦寺の支配下にあったが、探題府の関係者がこの地域に集住したことで、比叡山と関係のない僧侶や商人も多く集まるようになっていた。

 著者は、『徒然草』を読むと、六波羅近辺が兼好の行動圏であったことが確認できるという。179段には元から一切経を招来した道眼上人が、「六波羅の辺り、焼野といふところに安置して、殊に首楞厳経を講じて、那蘭陀寺と号す」とある。この個所は、さまざまに関心を呼ぶくだりであるが、著者は道眼がもともと関東地方出身の武士であったこと、新しい仏教の動きの一端であったことに注目している。〔私は「那蘭陀寺」という寺の名が、玄奘がインドで仏教を学んだ寺の名を写していることに興味がある。〕そして「このように六波羅一帯は新仏教系の寺院が拠るところでもあった」(66ページ)として、栄西の建仁寺や浄土宗西山派の寺院の例を挙げている。
 「このように祇園から六波羅・今熊野にかけては、武士・宗教者・金融業者などがひしめく新興都市であり、その住民の一人として兼好の足跡も見出すことができるのである。」(68ページ)と著者は言う。 兼好はただ好奇心に駆られて歩き回ったというわけではなく、一定の目的をもって行動していたのであり、それがどのようなものであったのかを次に見ていくことにしよう。もちろん、兼好の行動範囲が今回述べた鴨川の東の地域だけにかぎられていなかったのは言うまでもない。

 鎌倉はもちろんのこと、金沢文庫も何度も出かけた場所であり、そのことから前回紹介した部分は楽しく読むことができたが、京都で暮らしていたころ、左京区に住んでいたがデモで円山公園に出かけたり、祇園会館という映画館で映画をみたり、東山区にはよく出かけたことを思い出す。六波羅蜜寺には学生時代にも出かけたことがあるが、就職してからも足を運んだことがある。ただ、その際に『徒然草』を思い出すことはあまりなかったので、これから、出かける機会があれば気にかけてみることにしようと思う。 
 
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