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『太平記』(188)

12月11日(月)晴れ

 建武3年(南朝延元元年、1336)10月、足利方が近江を手中に収め、補給路を断たれた比叡山の宮方は兵糧の欠乏に苦しんだ。この機を利用して、足利尊氏は密書を後醍醐天皇に送り、天皇の京への還幸を促した。10月9日、天皇は京都への還幸を企てるが、それを察知した新田一門の堀口貞満が必死に諫言したため、天皇は東宮の恒良親王を即位させたうえで、義貞とともに北国へと向かわせ、再起を図るように命じられた。10月10日、後醍醐天皇は京に戻ったが、出迎えた足利直義によって花山院に幽閉され、近臣たちは任を解かれ、従っていた武士や僧侶たちのあるものは処刑された。

 10月11日、新田義貞は7千余騎を率いて、塩津(滋賀県長浜市西浅井町塩津浜)、海津(かいづ、高島市マキノ町海津)に到着した。七里半と呼ばれる海津から敦賀に至る西近江路の山中を、足利一族で越前の守護である斯波高経が大軍を率いて待ち受けていると分かったので、途中から道を変えて、木目巓(きのめとうげ、現在は木の芽峠と書く、福井県敦賀市と南条郡南越前町の境の峠)を越えていくことにした。

 「北国の習ひ、十月の初めより、高き峰々に雪降りて、麓の時雨(しぐれ)止む時なし。今年は例よりも陰寒烈しくして、風交りに降る山路の雪、甲冑に洒(そそ)ぎ、鎧の袖を翻して、面(おもて)を打つ事烈しかりければ、士卒、寒谷に道を失ひ、暮山に宿なくして、木の下、岩の陰に縮まり臥す。」(第3分冊、188ページ)と『太平記』の作者は記している。十月というのは陰暦の十月で、すでに季節は冬である。山の高いところでは雪が降り、麓のほうではそれが冷たい雨になっている。山を登れば登るほど、道のりは厳しくなる。士卒たちは風雨、風雪にさらされ、凍えながら進軍していく。

 暖をとるために火を起こそうとしても乾いた木がないから、弓矢を折って薪とする。近くに仲間のいるものは、お互いに抱き合って体を暖める。薄着で出発してきた人や、えさを与えられていなかった馬はあちこちで凍死する。そのために道が塞がれて、旅行者が通行できないほどであるという。八大地獄のうちの叫喚・大叫喚地獄、八寒地獄のうちの紅蓮・大紅蓮地獄の苦しみが眼前に展開する。現世でさえ地獄の苦しみを味わうのだから、来世ではどのような苦しみを味わうことになるのか想像したくないという状態である。

 四国の武士たちである河野、土居、得能は200余騎で後陣を進んでいたが、西近江路の難所である剣の熊で先を行く主力の軍勢から離れてしまい、前途は斯波の軍勢に塞がれ、やむなく山から下りて塩津の北にまた戻ってきたところを近江の豪族佐々木氏と近江浅井郡の熊谷氏の軍勢が取り囲んで討ち取ろうとする。かくなるうえは迎え撃って、敵と刺し違えて死のうと気は焦るのだが、馬は雪に凍えて動こうとせず、兵もまた雪で凍えて体の自由がきかない。手足はすくんでしまい、弓を引くことができず、太刀の柄も握ることができないまま、敵の刃にかかって果てていった。

 千葉介貞胤は、500余騎で進んでいたが、大雪の中、道を間違えて、敵陣へと迷い出てしまった。進むことも退くこともできず、前後の味方からは離れてしまったので、一か所に集まって自害しようとしていると、斯波高経のもとから使いがやってきて、「貴殿の武運はこれまでだと思われます。不本意ではありましょうが、当方に降参ください。これまで新田方として戦った罪は、私の身に替えてもとりなしましょう』と丁寧な調子ですすめられたので、貞胤は心ならずも降参して、高経に従うことになった。

 13日に、義貞は敦賀の津(港)に着いた。そこで気比神宮の神官である気比弥三郎太夫が300余騎でそれを迎え、東宮(恒良親王)、一宮(尊良親王)、新田義貞・義顕父子、義貞の弟(脇屋)義助を、敦賀湾に面した新田方の城である金ヶ崎の城に入れ、その他の軍勢は付近の民家に宿泊させた。ここに1日滞在したが、軍勢が一か所に集まっていては用をなさないと考えて、対象を諸国の城へと分遣することになった。大将である義貞は、東宮、一宮を奉じて、金ヶ崎の城に留まり、息子の義顕は北国の武士たち2千余騎をつけて、越後へ向かわせた。脇屋義助は千余騎を率いて、瓜生の杣山城へと派遣された。それぞれ、もし金ヶ崎が攻撃された場合には、城攻めの敵を背後から攻撃することを意図しての派遣である。

 これから物語は、義貞と彼の率いる軍勢の北国における苦闘を描くことになる。昔、日本海岸の学校に勤めていたことがあり、その際に京阪神との往復には湖西線や北陸本線を利用していたので、今回(以降しばらく)登場する地名にはなじみのあるものが多い。季節は冬、義貞の軍勢は雪に苦しむ。もともと義貞は上野(群馬県)の武士だから、寒さには強いが、雪の経験はそれほどないのではないかと思う。(越後にも一族がいるから、全く縁がないわけではなかろうが…) 越前の斯波高経は足利方でも有力な武将で、簡単に打ち破れそうもない。北国で再起を図るというのはあまり有望な策ではないと思うのだが、それでも北陸王朝はかなりの期間維持されたと説く歴史家もいる。 
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