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日記抄(12月3日~9日)

12月9日(土)曇りのち晴れ

 12月3日から本日までの間に経験したこと、考えたことなど:
12月3日
 川崎フロンターレの優勝の余韻の残る等々力グランドで第96回全国高校サッカー選手権神奈川県大会の決勝、桐光学園と桐蔭学園の対戦を観戦した。両チームともになかなか得点が取れず、延長戦を終えても決着がつかなかったために、PK戦となり、5-4で桐蔭学園が桐光学園を下して全国大会への出場を決めた。桐蔭は、後半にキャプテンが退場となり、1人少ない人数での試合となったが、よく守り切った。全国大会への出場は久しぶりであるが、健闘を期待したい。

 はしだのりひこさんの訃報を聞く。私と同年齢(ただしはしださんは早生まれ)なのでびっくりする。ご冥福を祈る。

12月4日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』で、仕事上の相棒と連絡がつかないのでその住所を訪問した女性が、相棒と同居している青年とかわす会話の一部:
Tu vas à la fac demain? (明日は大学に行くの?)
 facはfacultéの略で、英語のfacultyに相当し、大学の学部のことを言ったが、会話では「大学」という意味で使うという。辞書によると、学部は1968年にunité d'enseignement et de recherche (略:UER)「教育・研究単位」に改められたが、日常語としては現在でも用いられているとのことである。

12月5日
 『朝日』の朝刊に大学の入試改革をめぐり「脱・暗記 考える大学入試」という方向性が示されていると報じられていた。まことに結構なことだが、これまでも書いているように、大学教育の改革作業の中で、入試だけが過度に重視される傾向を何とかしないといけないのではないだろうか。大学の学部段階での教育をもっと改善する必要があるということをもっと「考えて」ほしいものである。それから、「考える入試」ということになると、高校までの段階で「考え方」をもっとよく身に着けさせるような努力が必要になるだろう。それを学校教育のどのような領域で行っていくのかも問題とされなければなるまい。

 同じく、「折々のことば」の欄で、「冒険の現場というのは概ね退屈で、冒険に行くだけでは面白い文章が書けないことが多い」という冒険家の角幡唯介さんの言葉が紹介されているのが面白かった。これは柳沼重剛が『語学者の散歩道』(研究社、1991)で、クセノポンの『アナバシス』(ギリシア語の初級文法を終えた後の読み物として使われることが多い)を授業で使った際に、ある学生が「これおもしろいですね、軍隊が行動している間は(語学的に)やさしいんですが、(軍が)とまるとむずかしくなりますね」(106ページ)といったのは大事なことに気づいていたのだと書いているのと符合している。軍隊が行動するというのは、進軍するとか、退却するとか、交戦するとか、一定のパターンがあり、それに応じて文章のパターンも決まってくるが、とまるとすることが多様になって、それを記す文章も複雑になってくる。ということで、また(古典)ギリシア語を勉強しなおして見るかなどと思いはじめた。

12月6日
 『朝日』の朝刊に吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』が最近、また読まれ始めているという記事が出ていた。この本の一部分を、中学校の国語教科書で読んだことがあり、この本が復刊された時に買い求めて読んだことを思い出す(まだ、持っているはずであるが、見つけ出すことができない)。
 この本の中に1940(昭和15)年に東京で開かれるはずだったオリンピックのことが出てくると記憶する。本と直接の関係はないが、このオリンピックの準備委員長であったのが、「十六代様」と言われ、長く貴族院議長を務めた徳川家達である。家達は相撲好きで、東京で本場所があると必ず観戦していたという。それで、何かの理由で姿が見えないと、「徳川関休場」などと書かれた。しかし、自分がどの力士をひいきしているかを感じとられるような言動は一切見せなかったという。むかしのお殿様らしい態度である。(この話は、野村胡堂の『胡堂百話』に出ていたと思うのだが、この本もどこかに埋もれている)。
 なお、家達は貴族院の書記官長であった柳田国男と喧嘩したという話があるから、常に温厚で公平な人だったと判断することはできない。

12月7日
 NHKラジオ『まいにちドイツ語』応用編「ベルリン――変転する都市」では、1936年のベルリン・オリンピックの話題が出てきた。
Die Olympischen Spiele, die 1936 in Berlin stattfanden, wurden sowohl in Detschland als auch im Ausland als großartige Sportveranstaltung gefeiert, wenngleih die Instrumentalisierung des Sports für politische Zwecke umstritten war. (1936年にベルリンで開催されたオリンピック競技大会は、ドイツ国内でも外国でも、すばらしいスポーツ・イベントとして称賛された。スポーツを政治目的のための手段とすることは、議論の的になったのではあるが。)
 政治目的はオリンピックの精神に反するものであるが、商業目的も同様である。両方を目指すのはさらに悪い。
Bis heute sind einige Elemente erhalten geblieben, die in Berlin zum ersten Mal in der Geschichte der modernen Olympiade eingesetzt wurden: Die pompösen Eröffnungs- und Schlussfeiern sovie der Fackellauf, mit dem das olympische Feuer in das Stadion getragen wird. (ベルリンにおいてオリンピック史上初めて採用されたいくつもの要素が、現在でも保持されている。華麗な開会式、閉会式や、オリンピック聖火を競技場へと運ぶ聖火リレーである。)

 『まいにちスペイン語』応用編「スペイン文学を味わう」では、エミリア・パルド・バサン(Emilia Pardo Bazán, 1851-1921) の『ウリョーアの館』(Los Pazos de Ulloa, 1886) を読むことになった。これまでの『三角帽子』、『ペピータ・ヒメネス』がスペイン南部アンダルシア地方を舞台とした、割合のんびりした物語であったのに対し、今回はスペイン北西部のガリシア地方を舞台とした、女流作家の手になる自然主義的な作品で、 雰囲気がガラッと変わったという感じである。

 『まいにちイタリア語』応用編「原文で読む古典の楽しみ」はニッコロ・マキャヴェッリ(Niccolò Machiavelli, 1469-1527)の『君主論』(Il Principe)を読むことになり、今回は第1章が取り上げられた。
Tutti gli stati, tutti e' domini che hanno avuto, e hanno imperio sopra gli uomini, sono stati e sono o repubbliche o principati. (民を治めてきた国はすべて、共和国か君主国か、そのいずれかである。むかしからそうであり、今もそれは変わらない。)
とマキャヴェッリは書き出しているが、確かに今でもそのとおりである。しかし、スピノザが『国家論』で述べているような独裁制、寡頭制、民主制というような分け方もある(そっちの方がわかりやすいような気もする)。
 講師の白崎さんによるとマキャヴェッリは「適切な手段と優れた力量により一介の私人からミラノ公になった人物」であるフランチェスコ・スフォルツァと「戦争という大事業により民衆の心を掴んだ」(アラゴン王フェルナンドⅡ世とを政治家として高く評価していたそうである。マキャヴェッリがフェルナンドⅡ世を高く評価しているというのは初めて知った。フェルナンドとともにスペインを統治したイサベールの方が、コロンブスを後援したこともあって知名度が高いのではないかと思う。

12月8日
 マキャヴェッリ『君主論』の続き。マキャヴェッリの政治理念のキーワードはfortuna(運命)とvirtù(力量)であり、昨日は、与えられえた運命をうまく生かすことができる個人の力であるvirtùが問題になったが、今回はfortunaについて述べた第25章の一部が取り上げられた。世の中のことは運命と神によって支配されている、とは言っても、個人の力で切り開けるものはあるというのが彼の考えで、これはルネサンス時代らしい考えであるという。それで、結論部分でマキャヴェッリは次のようなことを言う。
Io iudico bene questo: che sia meglio essere impetuoso che respettivo; perche la fortuna e donna, ed e necessario, volendora tener sotto, btterla ed urtarla. (私が考えるに、慎重であるよりは果敢である方がよい。運命は女だから。組み伏せたいと思ったら、叩きのめしてでも自分のものにする必要がある。)
 当時は男性優位の時代であったから、こんな乱暴な発言をしたのであろう。(fortunaという語が女性名詞であるから、擬人化する際に女性になったのである。「勝利の女神」とか、「自由の女神」とかいうのと同じ使い方である。) そういえば、花田清輝が『復興期の精神』所収の「政談」の中で、マキャヴェッリとスタンダールを並べて、「たぶん二人とも、あんまり女に惚れられそうな顔つきもしていないくせに、やたらと女を撲ったり、虐待したりすることばかり考えていたせいであろう。これでは女性である運命の神が、二人に微笑するわけがない」(講談社文庫版、37ページ)と書いている。

 廣瀬匠『天文の世界史』(集英社インターナショナル新書)を読み終える。面白かった。

12月9日
 『朝日』の朝刊の「折々のことば」でウィリアム・ジェイムズの『プラグマティズム』の中の「経験というものはさまざまな風に煮えこぼれるもので、我々に現在の方式をさまざまに修正させてゆくものである。」という言葉が紹介されていた。
 大学院時代に「思想」と「イデオロギー」は同じことじゃないかといった同じゼミの学生がいたが、「思想」には、権力や社会集団に公認されて「イデオロギー」として機能するものと、そうすることを拒否するものとがあると思う。プラグマティズムや保守主義は本来、「イデオロギー」となることを拒否する思想である。むかし、サッチャーが日本からの記者とのインタビューの中で、「サッチャリズム、社会主義(socialism)のことか?」といったことがある。つまり彼女は当面する問題を自分の信念に従って解決していただけで、それが他人を縛る思想へと転化することを拒否したのである。私は彼女が好きではないが、自分の思想が「イデオロギー」になることを拒否したのは、さすがだと思う。
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