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服部英雄『蒙古襲来と神風』

12月7日(木)晴れ

 12月6日、服部英雄『蒙古襲来と神風』(中公新書)を読み終える。

 鎌倉時代の中期に元(蒙古)の軍隊が日本に来寇したが、2度とも「神風」が吹いて決着がついたと、かなりの人々が理解しており、一部の(検定済み)教科書にもそう書かれ、学校で教えられている。この「通説」により形成された「神風史観」は近代日本の動静に大きな影響を与えた。

 確かに多くの歴史家もこの「通説を信じていて」そのように書いた一般向けの著作は多い。しかし、その根拠となる史料はない。文永の役の際に、1日で敵が帰国した原因となったといわれる嵐は文永11年(1274)10月20日夜に吹いてはいない。九州本土における戦闘はこの日だけであったと記すのは『八幡愚童訓』だけで、そこに書かれているのは筥崎宮が焼かれたことで怒った八幡神が追い返したと記されている。

 続く弘安の役では、確かに台風が来たし、実際に鷹島沖に船は沈んでいる。蒙古は手痛い打撃を受けて不利になった。ただし、鷹島に停泊していたのは元の艦隊の全部ではなく、旧南宋軍である江南軍であった。朝鮮半島の高麗を中心とする先遣部隊(東路軍)は、太宰府付近の博多湾にいた。台風通過は弘安4年(1281)閏7月1日。その4日後の7月5日に博多湾・志賀島沖海戦、さらに2日後の7月7日に鷹島沖海戦があり、ともに日本が勝利した。嵐・台風が決着をつけた訳ではなく、その後にも合戦は継続されていた。2つの海戦の結果、戦争継続は困難と判断した蒙古軍は、江南軍・東路軍ともに、鷹島・志賀島からの退却を決めた。台風は蒙古の舟だけでなく、日本の舟も鎮めて甚大な被害を与えているので、「神風」とはいえそうもない。中国や高麗に戻った将兵は、大風雨の被害を誇張することで、敗戦の責任を逃れようとした。史料を読み直すことで戦闘と「神風」の実態は「通説」と違った形であることがわかる。

 クビライが日本を攻略した理由は、日本が宋を支援し続けていることであった。日本はそうと長く友好関係を続け、それ以外の国は戎夷としか認識していなかった。また日本が宋に輸出している硫黄は火薬の重要な原料であった。その供給を阻止することは、宋を滅ぼすためにも必要であった。

 このような国際関係が背景となっているので、合戦の推移を読み解く手がかりとなる資料は日本・中国・韓国に多く残されている。それらとともに、いやそれよりもさらに貴重なのは、合戦に参加した武士竹崎季長が自らの経験を踏まえて、自ら指揮して絵師に描かせた絵巻『蒙古襲来絵詞』である(なお、この絵巻には、台風(神風)の場面はまったく描かれていない)。この書物は、こうした資料の分析をとおして、戦闘と「神風」の実態を明らかにしようとするものである。

 この書物の目次は次のようなものである。
序 章 神風と近代史
第一章 日宋貿易とクビライの構想
第二章 文永の役の推移
     第一節 蒙古・高麗軍の規模
     第二節 合浦・対馬・壱岐
第三章 弘安の役の推移
     第一節 東路軍の侵攻、世界村はどこか
     第二節 東路軍拠点・志賀島の攻防
     第三節 江南軍、鷹島へ
     第四節 閏七月一日の暴風
     第五節 台風後の死闘
     第六節 海底遺跡が語ること
     第七節 終戦、その後
第四章 竹崎季長の背景
第五章 『蒙古襲来絵詞』をよむ
     第一節 『絵詞』に描かれた文永の役の推移
     第二節 『絵詞』に描かれた弘安の役の推移
     第三節 鎌倉・安達泰盛邸でのできごとの意味
第六章 その後の日元関係
第七章 遺跡から見た蒙古襲来
     第一節 石築地
     第二節 鷹島神崎沖・海底遺跡と沈没船
終 章 再び神風と近代へ

 既に著者の主張の主な部分は示してあるので、各章ごとの紹介・論評は簡単なものにとどめておく。今回は、第二章までを取り上げ、以下はまたの機会に紹介・論評することにする。
 序章では、侵攻してきた蒙古が神風によって撃退したという「神話」が、近代になると民衆の間に浸透し、特に学校教育によって子どもたちの心の中に植え付けられたことが語られている。大戦中、学徒兵であった人たちの記憶によると、上官が「ちっとも神風が吹かんなぁ」と言っているのを聞いたそうである。

 第一章では(すでに述べたように)日宋貿易における日本側からの輸出品の主なものが木材と硫黄であったこと、兵器製造用である硫黄が日本から輸出されているのを阻止し、自分たちのものとしようとする物質戦争であったことが述べられている。そしてそのために、独立性の強い行政機関である大宰府を攻略することが目的であったので、九州北岸に侵攻してきたと論じている。

 第二章では文永の役の際の蒙古・高麗軍の規模として、『高麗史』に記す「900艘」の実態は「大船300艘+ボート600艘」であり、ボートは大船に装備されているから、規模はかなり小さくなること、これは元から出動を命じられた数で当時の高麗の国力では動員できる数ではなく、実際に日本に赴いたのは126艘以下であったことが考察されている。しかも、当時の朝鮮半島には元に反旗を翻している三別抄という勢力が南部で抵抗を続けていて高麗王朝が一枚岩ではなかったことも注記されている。軍の規模をめぐる歴史書の記述にはかなり誇張があることが、兵船の大きさなどを考慮して論じられている。
 蒙古(実質的には高麗)軍は対馬、壱岐を占領し、九州の北岸、博多付近に上陸して拠点を築こうとした。これに対し、太宰少弐で筑前守護であった少弐経資を総帥とする日本の武士たちは、後に福岡城が築かれる赤坂山(警固山)に拠点を築いて対抗、戦いは蒙古側がやや優勢であったが、陸地に拠点を築くことができず、戦局が停滞しているうちに異常気象のために被害を受けた蒙古側がこれ以上の戦闘の継続を望まずに撤退したと考えられる。当時の暦で10月、現在の暦で11月のことなので、台風というよりも寒冷前線の通過に伴う暴風であったとみるべきではないかというのが著者の意見である。

 弘安の役を取り上げている第3章を読むとさらにはっきりするが、蒙古側の軍勢の方が数は多かったが、兵站・補給の点で難があり、士気も高くなかったので、必死の防戦に努める日本の武士たちの反撃を打ち破ることができなかったという側面の方が、天候の影響よりも大きいことが読み取れる。特に文永の役の場合には、九州の陸地に拠点を築くことができなかったというのが、いちばん大きな蒙古側の敗因であるということであろう。
 この書物の中に登場する武士たちの中には、その後、南北朝時代に活躍する武士と同じ姓の人物が少なからずいて、それぞれの系譜関係なども気にしながら読んでいた。これまで通説とされていた池内宏(1931)『元寇の新研究』の議論をしっかり読み込んで問題点を考え直していく手際はなかなか小気味がいい。
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