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『太平記』(187)

12月4日(月)曇り

 建武3年(南朝延元元年、1336)7月、宮方は京を包囲して奪回を試みたが、失敗に終わり、名和長年がこの戦いで戦死した。足利方の小笠原貞宗、その後佐々木道誉が近江を押さえ、補給路を断たれた比叡山の宮方は窮地に陥った。足利尊氏は後醍醐天皇に密書を送り、京への還幸を促し、天皇は還幸へと踏み切ったが、新田一族の堀口貞満が必死に諫め翻意させようとした。結局、天皇は義貞に東宮(恒良親王)を託し、北国で再起を期すように命じた。

 前回の終わりに、北国に赴く前に義貞が日吉山王の大宮権現に参拝し、源氏累代の名刀である鬼切を奉納したと書いた。岩波文庫版の脚注ではこの刀について、「渡辺綱が鬼の腕を切った太刀」(第3分冊、181ページ)と書いている。渡辺綱とその主人である源頼光が鬼を退治して、この刀に鬼切という名がついた来歴は、『太平記』第32巻で語られる。『広辞苑』(私の手元にあるのは第1版第27刷)では「多田満仲が戸隠山で鬼を斬るに用いたから名を得た。新田義貞討死の時、足利高経が得た」とあるが、その話もこの前後に出てくる。『広辞苑』は「足利高経」と記しているが、『太平記』には「斯波高経」と記されている場合もある。(斯波氏は足利氏の一門である。) このあたりの『太平記』の記事は説話としては面白いが、歴史的事実に照らすと荒唐無稽に見える部分があるので注意を要する。

 10月10日の巳の刻(午前10時ごろ)に、後醍醐天皇は東坂本から延暦寺東塔を経て西坂本(修学院の辺り)に通じる今路を西にむかって京に還幸され、東宮(恒良親王)は騎馬で、琵琶湖の西岸を北へと向かわれた。
 天皇に供奉して京都に出た人々の中で主だったものは、吉田内大臣定房、万里小路大納言宣房、御子左中納言為定(藤原俊成・定家に始まる御子左家の嫡流である二条為世の孫)、侍従中納言(三条)公明、坊門宰相清忠、勧修寺中納言経顕、民部卿(九条)光経、左中将(甘露寺)藤長、頭弁範国(頭弁というのは頭中将とともに蔵人所の長官を務める役職である)、武家の人々では大館氏明、江田行義、宇都宮公綱、菊池武俊、仁科重員、春日部家縄、南部為重、伊達家貞、江戸景氏、本間孫四郎為頼、道場房猷󠄀覚、合わせて700余騎の武士たちが、天皇のお召しになった腰輿の前後に従っていた。

 東宮の行啓のお供をして北国へと向かった人々は、尊良親王、洞院左衛門督実世、同じく少将定世(岩波文庫版の脚注によると「不詳」だそうである)、三条侍従泰季、御子左少将為次、頭大夫行房、その子息の少将行尹、武士では新田義貞、脇屋義助、義貞の子の義顕、義助の子の義治、堀口貞満、一井義時、額田為綱、里見義益、大井田義政、鳥山義俊、桃井義繁、山名忠家、千葉貞胤、宇都宮泰藤、狩野泰氏、河野通治、河野通綱、土岐頼直、合計して7千余騎、土地の地理に明るいものを先に行かせて、東宮を警護しながら進んで行った。
 これ以外では妙法院宮(宗良親王)は舟で遠江に逃れられた。阿曾宮(懐良親王)は山伏の姿になって、吉野の奥を潜行された。四条中納言隆資は紀伊の国へ下り、中院少将定平は、河内の国へ姿を隠した。
 このように宮方の人々が散り散りになっていく様子は、唐の玄宗皇帝が安禄山の乱で都を捨てて蜀へと落ち延びた様に似ていると、例によって『太平記』の作者は美辞麗句を連ねて大げさに書き立てているが、付き合いきれない。

 還幸の列が法勝寺(現在の京都市左京区岡崎法勝寺町にあった寺)の辺りまで来ると、尊氏の弟の直義が500余騎を連れてやってきて、まず三種の神器を当今(とうぎん)の御方(つまり足利氏に擁立された豊仁親王→光明天皇)に渡されるようにと申し上げたところ、天皇は既にこういうことになると予測されていたのか、偽物を内侍を通じて渡された。〔前回に書いたように、三種の神器は既に、恒良親王に渡されたはずで、話がややこしくなってきている。〕

 その後、天皇を花山院(現在の京都御苑内にあった花山上皇の御所で、花山院家が伝領)に幽閉し、降参してきた武士たちは、足利方の有力な武士たちの元に一人ずつ預けて、囚人扱いをした。こういうことになるのであれば、義貞とともに北国へ落ちて、討ち死にした方がよかったと後悔しても、後の祭りである。
 10日ほど過ぎて、菊池武俊は警固のゆるくなった隙をついて本国である肥後に逃げ帰り、宇都宮公綱は逃げ出す隙はあるのに、出家したような様子で、なすこともなく警固のものと向かい合っていたのをけしからんと思った人がいたようで、門の扉にヤマガラを絵に描いて、その下に、一首の狂歌を書きつけたものがいた。
  山がらがさのみもどりを宇都宮都に入りて出でもやらぬは
(第3分冊、186ページ、山雀が籠の中だけを行ったり来たりするように、宇都宮は都に入ったきり外へ出て行かぬことよ。もどりをうつと宇都宮、みやこと籠(こ)をかけている。)

 本間孫四郎は、もとは尊氏の家来であったが、その後新田義貞の配下に加わり、兵庫の合戦の時は遠矢を射て強弓の射手ぶりを見せつけ、雲母坂の戦いのときには扇を射て自分の上で前を誇示したなど、これまでのふるまいが憎らしいというので、刑場とされていた六条河原に引き出されて、首を斬られてしまった。
 道場房猷覚は後醍醐天皇の側近として活躍したのだが、比叡山の宮方の長本であると、12月29日に阿弥陀峯で首を刎ねられた。その際に、一首の歌を詠んで法勝寺の上人(円観)のもとに送った。
  大方の年の暮れかと思ひしにわが身のはても今夜(こよい)なりけり
(第3分冊、187ページ、世間は年の暮れを迎えるころと思っていたら、私の命の終わりも今夜だった。)

 このほか、比叡山から後醍醐天皇に従って京に戻ってきた公卿たちは、死罪にはならなかったとはいうものの、官職を免ぜられたり、一時やめさせられたりして、都にいてもしかたがないような身の上になってしまった。元の住処に帰っても、荒れ果てた様子で、訪ねてくる人もいない有様である。むかしはよかったなどと懐旧の涙にくれながら、日々を過ごしたのであった。

 後醍醐天皇が尊氏に騙された形になったが、その天皇は北朝の天皇に偽物の三種の神器を渡したという。狐と狸の化かしあいのような話だが、天皇の側近の公家、僧侶、武士たちは京都に戻って悲惨な境遇に置かれている。今回はやたら、人名が登場したが、この中のかなりの部分がどんな人物であったかわからないようである。歴史というのが、勝者の立場からまとめられているということがよく分かる。
 藤原俊成・定家の流れをくむ御子左家は、二条、京極、冷泉の3つの流れに分れ、それぞれ歌道の家として競い合うが、保守的な二条流は大覚寺統と、革新的な京極流は持明院統と結びついて、勅撰和歌集の選者の地位を争うことになる。この辺りは、最近出た小川剛生『兼好法師』にかなり詳しく書かれているので興味のある方はご覧ください。兼好は二条為世の弟子だという。今谷明『京極為兼』なども、別の立場から書かれているので面白いかもしれない。実はよく読んでいないのだが、西野妙子『光厳院』は文学史の立場からこの問題に取り組んでいるらしい。とにかく、読まないことには話にならない。

 
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