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峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』

11月2日(木)晴れ

 10月31日、峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』(講談社選書メチエ)を読み終える。

 《戦国時代》は応仁元年(1467)に始まる「応仁・文明の乱」(あるいはただ単に「応仁の乱」)が画期であるというのが一般的な理解のように思われるが、著者である峰岸さんは次の2点で異議を唱える。

◎戦国時代は応仁・文明の乱より13年早く、関東から始まった
◎応仁・文明の乱は「関東の大乱」が波及して起きたものである
(10ぺージ)

 「関東の大乱」とは、享徳3年(1454)12月に、鎌倉(古河)公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を自邸に招いて誅殺した事件を発端とする内乱で、以後30年近くにわたり東国を混乱させる。この内乱は、ただ単に関東における古河公方と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府=足利義政政権と古河公方との間の「東西戦争」である。

 興味深いのは、成氏が幕府方と交戦する28年間に、享徳→康正→長禄→寛正→文正→応仁→文明と6度も改元されたにもかかわらず、(おそらくは)中央政権への抵抗の意味で享徳年号を連続して利用したことである。(日本の年号で一番長く続いたのは昭和で64年まであり、以下②明治(45年)、③応永(35年)、④平成(29年)、⑤延暦、南朝・正平(25年)、⑦天文(24年)、⑧延喜(23年)、⑨寛永(21年)、⑩貞観、文明(19年)ということであるが、享徳が28年まで利用され続けたと考えると、5位に入ることになる。)

 実はこの「関東の大乱」を「享徳の乱」と呼ぶべきであると主張したのは、峰岸さんであり、最近では日本史の教科書にも「享徳の乱」についての記述が含まれるようになったが、まだまだ一般の理解は十分ではない。この書物は80代も半ばになった峰岸さんが、「最後の仕事」(210ページ)として世に問うものであり、長年の研究成果を踏まえて、戦乱の経緯とそれによって生じた領国経営領地支配のやり方の変化の様相を概観している。

 全体の構成は次のようなものである。
はじめに 教科書に載ってはいるけれど‥‥
第1章 管領誅殺
 1 「兄」の国、「弟」の国
 2 永享の乱と鎌倉府の再興
 3 享徳3年12月27日
第2章 利根川を境に
 1 幕府、成氏討滅を決定
 2 五十子陣と堀越公方
 3 将軍足利義政の戦い
第3章 応仁・文明の乱と関東
 1 内乱、畿内に飛び火する
 2 「戦国領主」の胎動
 3 諸国騒然
第4章 都鄙合体
 1 行き詰まる戦局
 2 長尾景春の反乱と太田道灌
 3 和議が成って…‥
むすびに 「戦国」の展開、地域の再編

 第1章では、足利政権のもとでの全国支配が、京都の兄の国と、鎌倉の弟の国(当初は足利尊氏と直義、その後は義詮と基氏)という二元構造に基づいていたが、京都の方が有利であることから、それを一元構造に再編しようとする動きと、二元構造を維持しようとする動き、さらに京都の将軍の地位を鎌倉公方が狙ったことなどから、対立関係が芽生え、さらに鎌倉府内でも公方と関東管領とのあいだでの対立があって、永享の乱、さらには成氏による上杉憲忠誅殺という事件が起きたという経緯がたどられている。

 第2章では、古河公方成氏と上杉方の対立の中で、どのような武士がそれぞれの味方として戦ったかが戦乱の推移とともに描かれている。両者の勢力範囲を区切るのは利根川(この時代は江戸湾に注いでいた)であり、その西側では上杉方、東側では公方方が勢力を築いていた。戦闘は公方方が優勢であったが、将軍義政と管領細川勝元が上杉方を支援して参戦し、形勢は上杉方に有利になった。なお、五十子は「いかつこ」と読む。

 第3章では、戦乱の結果として関東地方における各武将の家臣団の編成や所領支配の構造に変化が生じ、それがこの地方に利害関係を持つ京都の武将(例えば、群馬県高崎市山名を本拠地とする山名氏)たちに影響を及ぼしたことが、京都における応仁・文明の乱の展開とともに語られている。

 第4章では戦闘が長期化したうえに、上杉氏の家宰として管領方を支えてきた白井長尾氏の嫡子である景春が家宰の地位に就くことができなかったために反旗を翻し(管領方から公方方に寝返った)ためにますます泥沼化したこと、扇谷上杉氏の家宰であり、景春の親友でもあった太田道灌が景春に同調せずに、これと戦い戦功をあげたにもかかわらず、下剋上を恐れた主君扇谷上杉定正に誅殺されたことなどが記されている。
 文明14年(1482)にすでに軍事的な休戦状態になっていたことを背景として、古河公方と京都の政権との間での和議が成立し、これを「都鄙合体」あるいは「都鄙一和」という。室町幕府が関東に派遣した堀越公方は関東に対する(名目的)支配権を放棄し、伊豆だけを支配することになり、古河公方は伊豆をその支配領域から外すことになった。実質的には利根川をはさんで、上杉氏と古河公方が関東地方を二分するという勢力分布は変わらなかった。

 しかし、その伊豆から関東地方を再編に至らしめる大変化が起こりはじめる…というのはご存知であろう。堀越公方家の内紛に付け込んで、伊豆を支配下に置き、さらに相模に進出、武蔵にも影響力をもち始める伊勢新九郎(北条早雲)が登場するのである。

 ここでは書物の概要しか紹介できなかったが、関東地方からは国衆から次第に強大化して戦国大名になる勢力が出なかったのか(佐竹氏や里見氏はそれに近いのではないかという気がするのだが)という問題への考察が興味深い。最後に述べたように、関東地方で最も有力な戦国大名になるのは外来の北条氏であったのはなぜかということや、近隣の武田氏、上杉氏が関東ともった関係などについても注意して読む必要がある。

 個人的な興味からいうと、最後の方の長尾景春と太田道灌についてもっと詳しく書いてほしかったと思う。時々その近くを通っている小机城の攻防戦(太田道灌が景春方の士卒が立て籠もる小机城への包囲作戦を展開する)についてはまったく触れられておらず、その点はがっかりしたのである。その一方で、この書物のいわば主役である足利成氏の人物像の掘り起こしや、対立した足利義政についての「政治に無関心で文化面にのめりこんでいった「風流将軍」という、一般に流布したイメージとは大きく異なる」(103ページ)積極的な姿の掘り起こしなどは興味深い。この書物に触発されて、関東地方の歴史研究に専念する若い世代の登場が大いに期待されるところである。
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