亀田俊和『観応の擾乱』(2)

8月11日(金)雨が降ったりやんだり

 《観応の擾乱》は、室町幕府初代将軍足利尊氏と、その執事であった高師直と、尊氏の弟で幕政を主導していた足利直義が対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である。この戦乱は観応元年(南朝正平5,1350、この本は基本的に北朝の年号を使っているが、両方の年号を併記した方が便利だと思うので、ここでは両方を併記する)10月から、南朝正平7年(北朝観応3,1352、ここでは珍しく南朝年号を採用しているが、そのことが両者の力関係の変化を示している)に終わったと考えられているが、戦乱で明らかになる室町幕府内での確執は貞和4年(南朝正平3、1348)ごろから始まっており、戦乱の一部とみなすことのできる戦闘は文和4年(南朝正平10、1355)ごろまで続いている。
 この戦乱のために南北朝の対立は長期化し、皇統の合一を遅らせたという側面もあるとはいうものの、初期の室町幕府の珂アm鞍幕府を模倣した体制が変化し、室町幕府独自の権力構造が生みだされたのは、この戦乱の結果であったと著者は論じる。室町幕府にとって、観応の擾乱が持つ政治史的・制度史的意義は計り知れないというのが著者の評価である。

 第1章「初期室町幕府の体制」で、著者は観応の擾乱を理解する前提として、室町幕府の成立の経緯とその中での政治の様相を、足利尊氏、足利直義、高師直がその中で果たした役割に焦点を当てながら描き出している。今回は、室町幕府の成立の経緯と、その初期の体制が尊氏・直義の「二頭政治」であったという通説に対し、直義こそ「事実上の最高指導者であった」と亀田さんが主張している部分を取り上げる。

 1 「三条殿」足利直義――事実上の室町幕府最高指導者
 室町幕府発足の大きなきっかけとなったのは、建武2年(1335)に勃発した中先代の乱である。鎌倉幕府最後の得宗であった北条高時の遺児時行が信濃国で挙兵して建武政権に対して起こした反乱である。鎌倉幕府を「先代」、室町幕府を「当代」と称した場合、時行は「中先代」ということになるので、この名称がある。
 当時、建武政権は関東地方に鎌倉将軍府と呼ばれる地方統治機関を設置しており、後醍醐天皇の皇子である成良(なりよし)親王を名目上の首長として、足利直義が執権として東国を統治していた。ところが関東地方に侵入した時行軍は直義軍に連戦連勝し、7月25日には鎌倉を占領してしまう。そこで弟の危機を救うべく、足利尊氏が8月2日に出陣、今度は足利軍の連戦連勝で、同月19日に鎌倉を奪回し、時行は敗走する。

 尊氏は後醍醐の帰京命令に従わず、旧鎌倉幕府将軍邸に邸を新築して居住し、反乱鎮圧に功績があった武士に対し建武政権には無断で恩賞として所領を給付した。これは尊氏側から見れば、中先代の乱の戦後処理を進め、北条氏残党を完全に鎮圧するための必然的な措置であったが、後醍醐側は、それを建武政権に対する謀叛と解釈し、11月19日に尊氏・直義兄弟を朝敵と認定し、新田義貞を大将とする官軍を出動させる。当初尊氏は、後醍醐天皇と戦う意思はまったくなく、寺にこもって恭順の意志を表明していたため、直義が主将として官軍と戦おうとした。ところが直義は官軍に連敗を続け、見かねた尊氏がついに挙兵、12月11日に箱根・竹ノ下の戦いで建武政権軍を破る。今度は形勢が逆転して、尊氏軍が東海道を攻め上り、建武3年(1336)正月に京都に侵入した。後醍醐天皇は比叡山延暦寺に籠城して足利軍に対抗、両軍の激闘は続いたが、奥州から北畠顕家の援軍が到着したために建武政権軍が優勢となり、童月30日に足利軍は京都を撤退して九州まで落ち延びた。

 しかし3月2日の筑前国多々良浜の戦いで後醍醐方の菊池武敏軍に奇跡的な勝利を収めた足利軍は、4月3日に再び京都を目指して東上を開始する。5月25日の摂津国湊川の戦いでは名将楠木正成を敗死させ、29日に直義隊が先鋒として入京した。後醍醐天皇は正月に続いて2度目の正月に続いて2度目の比叡山籠城を行い、足利軍との熾烈な戦闘を続けた〔当ブログで連載している『太平記』は目下、このあたりの戦闘の記述に差し掛かっている。〕 この間、8月15日に持明院統の光厳上皇の院政が始まり、弟の豊仁親王が即位して光明天皇となった。〔厳密にいうと、光明という諡号が贈られたのは崩御後の話である。〕 こうして後に北朝と呼ばれる朝廷が発足した〔発足時点では、光明天皇の方が後醍醐天皇よりも南に皇居を構えられていたわけである。〕

 その後、戦局は次第に足利軍に有利になり、追い込まれた後醍醐天皇は10月10日に、足利尊氏と講和し、比叡山を下りた。11月2日には、後醍醐が光明へ三種の神器を授ける儀式が行われた。同月7日、新しい武家政権の基本法典である『建武式目』が制定された。これをもって室町幕府が発足したとみなすのが定説である。
 ところが12月21日、後醍醐天皇は大和国吉野へ亡命し、自分こそが正統の天皇であると主張した。〔「三種の神器」を持たずに逃げ出しているので、この主張は弱い。〕 南朝の登場であり、これから60年間にわたり南北朝の内乱時代が続く。
 建武5年閏7月2日(南朝延元3年、この年に北朝は改元して暦応元年、1338)、後醍醐の皇子恒良(つねよし)親王を奉じて越前国へ下向し、幕府軍に抵抗していた新田義貞が、同国藤島の戦いで戦死した。これが大きな契機となって、8月11日、北朝から尊氏は征夷大将軍、直義も左兵衛督(さひょうえのかみ)に任命された。その直後から、直義の幕政にかかわる活動が開始される。これをもって、室町幕府は一応完成したのである。

 「幕府が成立する頃、尊氏は直義に政務を譲ろうとした。直義はこれを再三辞退したが、尊氏の強い要望に断り切れずに受諾した。以降、政務に関して尊氏が介入することはまったくなかったという。」(4ページ) これは尊氏側近の武将が貞和5年(南朝正平4年、1349)ごろに完成したと考えられる『梅松論』に記された逸話である。著者は、『太平記』よりもこちらの方が史料的な信頼性は高いという評価も付け加えている。
 室町幕府発足の経緯からもうかがわれるように、観応の擾乱に至るまでの尊氏の政治に対する姿勢は、基本的に消極的であった。「実際、『梅松論』の記述を裏付けるように発足当初の室町幕府の権限の大半は直義が行使している』(5ページ)。
 そのような権限の第1は、所領安堵である。所領安堵とは、武士が先祖代々相伝し、実効支配を継続する所領の領有を承認する皇位である。所領安堵の手続き・審査は安堵方という機関で行われ、直義自らが出席する評定という機関で最終的に承認されて、下文(くだしぶみ)と呼ばれる文書が発給された。
 表情は、鎌倉幕府の時代に執権・連署が主催した最高意思決定機関で、特定の日付で定期的に開催され、それら特定の日付を「式日」と称した。
 直義主導下の幕府を最も象徴すると言っても過言ではないのが、直義が管轄した所務沙汰(荘園・諸職の紛争を調停する訴訟)の判決文である裁許下知状で、これまで93通発見されているという。
 多数現存する直義の裁許下知状を検討すると、武士に荘園を侵略された寺社や公家による提訴の事例が非常に多く、訴人(原告)の多くは、係争地を正統な根拠によって代々領有していることが一般的で、そのために訴人が勝訴する確率が非常に高かった。所領安堵・所務沙汰裁許に顕著にみられるように、直義の政治は基本的に現状維持を最優先する特徴があった。
 また、全国の武士に戦争への動員を命じる軍勢催促状は、幕府が発足すると直義が一元的に発給した。また合戦で手柄を挙げた武士に、その功を感謝する感状を発給したのも直義であり、彼は武家の棟梁に必須である軍事指揮権も掌握したのである。 しかも直義は、御家人の統制機関で京都市中の警察も担当した侍所も管轄した。
 さらに直義は、将軍家の安泰を祈祷する祈願寺の指定、北朝の光厳上皇が発給した院宣を承認する院宣一見状、武士が希望する官職を北朝に推薦する官途推挙状の発給など広範な権限を行使したのである。

 このように尊氏は、直義に政務を譲ったのだが、完全に隠居したわけではなかった。
 尊氏が行使した数少ない権限に、恩賞充行(おんしょうあておこない)がある。これは、合戦で軍忠を挙げた武士に、褒美として敵から没収した所領を給付する行為である。恩賞充行の手続き・審査を行ったのは恩賞方という機関で、これは尊氏が管轄したが、その開催は不定期であった。一方、尊氏の下文は直義のものよりも尊大な形式で記されており、彼の立場が直義よりも上であることが示されていた。
 また尊氏は守護の任命も行った。この時期に尊氏が行使した権限は恩賞充行と守護職補任の2つだけだったのである。

 初期室町幕府の体制は尊氏・直義の二頭政治であったという佐藤進一の説がこれまで定説となってきた。しかし、尊氏と直義が権限を均等に二分したのではなく、直義に大きく偏重している状況は「二頭政治」とは言いにくい。むしろ『梅松論』の記事をそのまま受け取って、初期室町幕府は直義が事実上の最高権力者として主導する体制であったと考えるべきではないかと著者は主張する。ではこの体制をどのように表現すべきか。
 桃崎有一郎の研究によると、この時期の直義は「三条殿」あるいは「三条坊門」と呼ばれることが最も多かった。後年の室町幕府では、首長の邸宅所在地である「室町殿」がその地位を表す名称として使用された。それを踏まえると、直義の地位を三条殿とするのは当然のことで、三条殿体制は、必ずしも将軍とは限らない人物が最高権力者として幕政を主導し、住居の名称で呼ばれる点で、足利義満以降の室町殿体制の先駆的な形態であったと評価できると論じている。

 以上、亀田さんは、室町幕府の初期における体制は、通説が主張してきたような尊氏・直義の二頭政治ではなくて、直義が実質的な最高権力者である体制であったことを強調しているのである。
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