司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』(2)

8月7日(火)晴れ、台風は日本海岸の方を北上中とのことである。被害が出ないことを願う。

 1971年5月15日、司馬さんは伊丹を発って、空路、釜山に到着した。大阪育ちの司馬さんは、子どものころから韓国の人々やその文化遺産に触れてきたので、日本文化との共通性や異質性を考えながら、この国と文化についての関心を深めてきた。そして、両国の交流や対立の歴史の痕跡を訪ねるべく韓国を訪問したのである。

 釜山空港で入国手続きを済ませた司馬さんは、ガイドの任(イム)さんに迎えられる。彼女は少し前に、日本の実業界の要人たちの韓国旅行のガイドを務め、彼女の人柄に感動した彼らが東京に彼女を招待するという経験をしたばかりのところである。司馬さんが考えた旅行先は「あまり人のゆかない農村ばかり」(29ページ)ばかりだったので、旅行会社の社員が普通のガイドでは無理だと判断して彼女に依頼することになったようである。しかし、そのイムさんも、日程を知った時には驚いて、逃げ出そうかと思ったという。上品で底抜けに明るい性格の持ち主である彼女は、上海の日本租界の日本人女学校を卒業し、結婚後、少し遅れてソウルの名門梨花女子大学の英文科に入学した経歴の持ち主である。朝鮮動乱の時はまだ学生だったのだが、家族とともに釜山に逃れてきたが、その途中、北方軍の人の殺し方を何度も見て、その残忍さが今でも心に残っているという。

 宿舎に荷物を置いて、2人は韓国でいう壬辰倭乱(イムジンウエラン、秀吉の朝鮮の陣)のときに、朝鮮の勇将鄭撥(チョンバル)将軍が優先むなしく戦死した城跡を訪問し、さらに坂を上って、日本風の石垣が残っているところに出る。イムさんの説明ではここは倭城(ウェソン)といって、秀吉の派遣した毛利勢がここに城を築いたという。「なるほどそう言われてみると、本丸、二の丸、出丸などの跡らしい地形をなしている」(34ページ)。この本丸跡に、動物園が出来ていたが、それも廃止になってしまった。司馬さんはここで、50人ばかりの子どもたちに取り囲まれていた。彼らはここが倭城の跡であることは知らず、動物園の跡であることだけを知っている。
 「慶長の再役の時の毛利軍の大将は輝元の養子で安芸宰相と呼ばれた秀元であったが、秀吉の命令とはいえ、無名の師に従軍し、他人の国に攻めこみ、この海岸の山に大汗かいて大きな城を築き、結局は撤退し、その後が今は城跡というよりも「動物園」の呼び名で通っているというのは、何となくおかしくもあり、空しくもあり、ひるがえって考えれば、倭兵の居住跡が動物園などとは変なユーモアのようにも思える。」(35ページ)
 司馬さんは本当は、対馬藩(宗氏)が釜山に設けた倭館の跡を訪問したかったのだが、どうもうまく通じなかったが、それはそれでいいと考える。「それに対馬藩の倭館というのは釜山駅の近所だともきいたが、いずれにしてもあとかたもなく消えているもので、今は繁華な市街になっているのである。」(36ページ)

 それから司馬さんは対馬藩(宗氏)が日韓両国の板挟みになって苦労した歴史を振り返る。さらに近世から近代にかけての日韓中の国際関係についても触れる。旅行中でもそうした歴史的な知識の整理は続いているのである。文明開化の日本から洋服を着てやってきた人々を見て「…その形を変じ、俗を易(か)えたり・・・これすなわち、日本人と謂うべからず」(46ページ)と論難する。司馬さんが訪問したころの釜山の人々は、その多くが伝統的な服装をしていたという。「偉とすべきであろう」(47ページ)と司馬さんが敬意を払っているのも興味深い。(これは40年以上も昔の話で、今はそんなことはないはずである。私も10年ほど前にソウルを訪問したが、たいていの人が洋服を着ていたという記憶がある。)

 釜山の通りを歩いていて、司馬さんは戦争中の記憶がよみがえってきたように感じる。戦車隊の小隊長であった司馬さんは4両の中戦車とともに釜山駅を出発し、日本軍の演習用の廠舎に向かった。他の小隊の後をついていけばいいはずなのだが、貨車から戦車を下すのに手間取って他の小隊はみな出発してしまってから出かけることになった。ひどい方角オンチである司馬さんはどこをどうやって行けばいいのかわからず、仕方なく、時々車を止めて飛び降りては、道をゆく韓服の老若男女に、道をきいたりした。それで奇跡的に目的地に到達したのだが、「どうもあいつは防諜ということを知らん」と上官から苦情が出たらしい。

 「防諜もくそもないもので、この当時日本軍部そのものが暗号をアメリカに全部読み取られてしまっていて、しかも知らずに太平楽に戦争をしていたくせに、最末端のチンピラが道をきいたぐらいで叱ることもない」(50ページ)と司馬さんは、日本軍部の不合理性をここでも批判している。「当時の英軍幕僚のあいだで、「日本軍の中で一番馬鹿が参謀で、いちばん利口なのは現場現場の下士官ではなかろうか」という話が出たらしいが、真実をうがっているかもしれない」(同上)との意見も付け加えている。

 さらに下級士官以下に対しては、「すべての兵士はのろまで臆病だという前提から」(51ページ)、できるだけ兵士の安全を確保した装備を与え、丁寧にわかりやすく指示を出して、諸君の命は安全であるといい続けたアメリカ陸軍と、一兵に至るまでことごとく名人に仕立て上げようとした日本陸軍との違いを論じているのは、戦争体験のある人ならではの議論である。(司馬さんが学徒上がりの下級士官だったことも忘れてはならない。) 

 「韓(から)のくに紀行」という触れ込みで、むかしむかしの加羅、新羅、百済の旧跡を見て回るのかと思うと、近世から近代にかけての日韓の平和な時代と戦争の時代の交流史が前面に出てきている。司馬さんが戦車から降りて道をきくと、韓国の人々はみな親切に道を教えてくれたというところに何となくほのぼのとしたものが感じられるのだが、もちろん、戦争も戦車もないほうがいいのであって、平和な交流にはどのような可能性があるのかを考える方がいいわけである。
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