『太平記』(170)

8月7日(月)晴れのち曇り、依然として暑い

 建武3年(南朝延元元年、1336)5月27日に後醍醐天皇は再び比叡山に臨幸され、叡山の3千人の衆徒は、この年の春に足利方の軍勢を京都から追い出した経験があったので、今回も勝利を確信して天皇をかばい守ろうと態勢を固めた。もし、北陸地方や関東から援軍が到着すると、形勢が逆転する恐れがあると考えた、足利方の指導者たちは早めに比叡山を攻略しようと東西から大軍をもって攻勢をかけた。

 6月6日、足利方の大手(比叡山を東から攻略しようと向かっていた軍勢)の大将から、搦め手である西坂の寄せ手の方に使者が派遣され、「自分たちが当面している敵陣をうかがい見ると、新田、宇都宮、千葉、河野をはじめとして、主だった武士たちは、ほとんど東坂本を固めているように見受けられる。西坂の方は、険阻を頼りにして、公家の侍や叡山の法師で守っているらしい。一度相手に激しく仕掛けてみてはどうだろうか。(名だたる武将、武士がいないので)これといった合戦は決して起こらないだろう。思い通りに(比叡山の主峰である)大比叡に陣取っている敵を追い落とされて、東塔にある大講堂、文珠楼のあたりに軍を止めて、合図の狼煙を上げてください。こちらもそれに呼応して攻め寄せ、東坂本の敵を一人残さず、湖水に追い詰めて滅ぼすだろう」と連絡をする。

 西坂から攻め寄せる軍勢の大将であったのは、高一族の豊前守師久(師直・師泰の弟)であったが、この知らせを受けて、自分の率いる軍勢に向けて命令を出して次のように述べた。「山門を攻め落とそうとする各方面の合図が明日あるだろう。この合戦に際して一歩でも後退したものは、たとえこれまで抜群の忠勤があったものでも、それはご破算にして所領を没収し、追放処分とするであろう。一太刀でも敵に打ち込み、陣を破り分捕りを成功させたものは、凡下(侍身分ではない中間以下のもの)であれば侍に取り立て、侍であれば直接恩賞を与えられるように口添えしよう。だからと言って、一人で手柄を立てようと抜け駆けをしてはならない。また同輩の手柄を妬んで、危地に陥ったのを助けないというのもいけない。お互いに力を合わせ、共に志を一つにして、斬るとか射るとかのやり方をとらず、乗り越え乗り越え進むべきである。敵が退却すれば、体勢を立て直して戻ってくる前に攻め立て、比叡山の上に攻め上り、堂舎仏閣に火をかけて、一宇も残さず焼き払い、3千の衆徒の首を一つ一つ大講堂の庭で斬ってさらし首にして将軍(尊氏)から褒賞を受けたいとは思わないか」と、部下のものを励まして下知をしたが、(寺を焼き僧侶の殺害を命じる)非道のほどは何ともあきれたことであった。〔『太平記』の作者には神仏の霊力や、宗教者の力をまともに信じているところがあって、それが高師久のこの勇み足発言への非難となって表れている。〕 配下の軍勢は、この命令を聞いて、勇み進まないというものはいなかった。〔前回も書いたが、足利方の方が軍勢の数は多いが、そのかなりの部分が様子見で必死に戦おうとはしない連中であり、だから勇敢にたたかわせようとすると、恩賞の空手形を乱発することになる。最近出た亀田俊和さんの『観応の擾乱』を読むと、このような大義名分よりも身の安全、恩賞をくれる方になびくという武士の様子がよくわかる。これも前回に書いたが、山を登る軍勢よりも、上の方で待ち受けている軍勢の方が矢が遠くまで届くなどの有利な点がある。〕

 夜が既に明けたので、雲母坂の中腹の三石、松尾、水飲から軍勢を3方面に分けて、20万騎が太刀、長刀の切先を並べて、鎧の左袖をかざして、エイやという掛け声を出して道を上っていった。宮方ではまず一番に、中務卿である尊良親王(史実では式部卿の恒明親王であったと岩波文庫版の脚注にはある)の副将軍としてこの方面を守っていた千種忠顕と坊門少将正忠が300余騎で防戦に努めたが、松尾から攻め上ってきた敵に後ろをふさがれ、忠顕卿は悔しいがこれが最後の戦いとなると必死に戦ったけれども、ついに全滅を余儀なくされた。後醍醐天皇への忠節は比類なく、それに対する褒賞も抜きんでていて、天皇の深いご信頼を得ていただけに、その命を軽く思って戦死したのは哀れなことであった。〔前年に結城親光が討死(14巻第20)、この年の5月に湊川の戦いで楠正成が敗戦⇒自害し、今度は千種忠顕が戦死した。建武新政のもとで後醍醐天皇の朝恩を受けて成り上がった「三木一草」が立て続けに戦死している。なお、『太平記』第8巻では大軍を恃んで京都を攻めたものの六波羅勢に撃退された時の千種忠顕の臆病ぶりに児島高徳があきれ果てるという箇所がある。『太平記の群像』の中で森茂暁さんは「忠顕の生涯をふりかえってみれば、彼の運命は後醍醐天皇とともにあったといえる。忠顕は同天皇の手足として働いたが、彼の栄達はひとえに同天皇の信任に支えられていた。文字通りの寵臣といえよう」(森、前掲、89ページ)と忠顕について論評しているが、その忠顕を失うことで後醍醐天皇の身辺はいよいよ寂莫としたものになったと考えられる。〕

 忠顕が戦死する様子を見て、後陣を支えて防いでいた延暦寺の僧房である護正院、禅智房、道場房以下の衆徒7千余人は、一太刀打っては引きあがり、しばら支えてはひき退き、次第次第に退却していったので、寄せ手はいよいよ勢いに乗って、追い立て追い立て休まずに、比叡山に昇る険しい道である雲母坂を、途中の蛇池を左手に見ながら、大嶽まで攻めあがったのであった。

 そうこうするうちに、比叡山の院ごとに鐘を鳴らして、西坂は既に攻め破られたと東塔に属する谷間が騒ぎ出したので、年老いて歩行も満足ではない僧侶は、老人用の杖を突きながら、東塔の本堂である根本中堂、西塔の堂舎である常行堂・法華堂などに出かけて本尊とともに焼け死のうと悲しむのであった。また学問と仏への祈りをもっぱらとする学僧たちは、経典とその註釈を胸に抱いて逃げのびていく。あるいは荒法師の太刀や長刀を奪い取って、彼らに代わって命を捨てて敵と戦おうとする者もいた。

 戦況は足利方有利の展開であるが、『太平記』の作者が後醍醐天皇よりも、比叡山の堂塔や僧たちの運命の方に関心を向けているように読み取れることが興味深い。森茂暁さんは、『太平記』が、足利尊氏に光厳院の院宣を届けるなど、彼と密着しながら政治・宗教の面で活躍した醍醐寺(真言宗)の賢俊の存在をほとんど無視していることから、「やはり宗教色という点から見れば、天台宗の強い影響のもとに成立したと考えられるのである」(森、前掲、202ページ)と論じられているが、このあたりの描写にもそんな特徴が表れているといえよう。
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