『太平記』(169)

8月1日(火)曇り、午後から雷雨

 建武3年(南朝:延元元年、1336)5月25日、九州から海路東上した足利尊氏、陸路を進んだ直義兄弟の軍は、兵庫で待ち受けていた新田義貞軍と戦った。義貞は、京都から応援に派遣された楠正成とともによく戦ったが、衆寡敵せず、正成は自害、義貞は京都に退却した。義貞敗戦の知らせに、後醍醐天皇は比叡山へと向かわれた。持明院統の花園法皇、光厳上皇、豊仁親王は、比叡山に赴く途中で足利方の武士に救われた。8月に豊仁親王が即位された。正成の首は六条河原にさらされたが、尊氏の厚情で、河内の妻子の許に帰された。正成の子正行は父の首を見て腹を切ろうとしたが、母は父の遺訓を聞かせて、自害を思いとどまらせた。

 今回から、『太平記』の第17巻に入る。
 延元元年(北朝:建武3年)5月27日に、後醍醐天皇は再び比叡山に臨幸された。比叡山の3千の衆徒たちは、この年の春にいったん京都を占拠した足利方を追い落とした記憶が残っていて、今度もたやすく足利方を破ることができるだろうと天皇を守り、盛り立てようとしていた。そして、北陸地方と奥州の宮方の武士たちの上洛を待ち受けているという噂であった。
 そこで、尊氏、直義、足利家の執事である高、尊氏・直義兄弟の母の実家である上杉の人々は、持明院統の皇族方が御所とされていた東寺(教王護国寺)に集まって作戦会議を開いた。宮方への攻撃を延び延びに先送りしていると、義貞勢に援軍が到着して形勢が不利になる恐れがある。いまはまだ義貞勢の数が少ないので、このうちに比叡山を攻撃しようと、6月2日、四方の手分けを決めて、敵の正面、側面、背後を攻めるべく50万の軍勢を比叡山へと派遣した。

 大手(正面)には足利一族の吉良、石塔、渋川、畠山を大将として、その勢5万余騎、大津、松本(滋賀県大津市松本)の東西の宿、園城寺(三井寺)の焼跡、志賀、唐崎、京都東山の如意が岳まで兵が充満した。搦め手として、比叡山の西側の修学院の方から、これも足利一族の仁木、細川、今川、荒川を大将として、四国、中国の武士たち8万余騎が向かった。比叡山の西麓である西坂本へは高一族のほか、足利一族の岩松、桃井を大将として30万騎、八瀬、藪里、松崎、赤山、降松、修学院、北白川まで兵が配置され、音無の滝、不動堂、白鳥から比叡山へと押し寄せた。

 比叡山の方では、足利方がこれほど早く攻めて来るとは予期していなかったのであろうか、道筋に見張りのものを立てることもせず、木戸や逆茂木を構えて敵襲に備えることもしていなかった。とはいうものの比叡山は険しい道の続く要害の地ではあったのだが、足利方の武士たちの馬はそのような岩場続きの路には慣れていた。
 折悪しく、比叡山に立て籠もる宮方の武士たちは、大将である新田義貞をはじめとして、千葉、宇都宮、土居、得能ら一人残らず、皆東坂本に集まっていて、山上には歩くこともできない長老の僧や、僧房にこもって学問に励む学僧しかおらず、兵力になるようなものは1人もいなかった。この時に、もし西の雲母坂から進んできた大軍が、休まずに進軍を続けて、比叡山の頂上まで登っていれば、山上も坂本も、防ぐ手立てを講じることができず、ひとたまりもなく陥落していたはずであるが、比叡山の鎮守の神である山王権現のご加護があったのであろうか、急に朝霧が立ち込めて、ごく近い距離でさえ見分けることができないほどであったので、味方の前陣が上げた時の声を、敵の防ぐや叫びの声と聞き違えて、後陣の多数の武士たちが続いて進まなかったので、漫然と時間を浪費してしまったのである。

 そうこうする間に、日吉山王七社の第一である大宮権現まで山を下りて、延暦寺の東塔・西塔・横川の僧徒の評議である三塔会合に出席していた僧徒が、山に戻ってきて、雲母坂の水飲峠にあった和労堂のあたりに集まり、ここを破られるか破られないかが勝敗の分かれ目であると必死に防いだので、攻め寄せてきた足利方の武士たちのうち、300余人が戦死して、前陣は無理に前進しようとしないので、後陣は益々進もうとする意欲を失い、雲母坂の途中の水飲み場所の木陰に陣を張って、掘割を仕切って垣のように楯を並べ、お互いに遠矢を射交わして、その日は無為に過ごしたのであった。

 西坂の方で合戦が始まったことを知らせるように、山中に鬨の声がこだましたので、東の志賀、唐崎の足利方の10万余騎は、東坂の西、穴生(大津市穴生)の前に押し寄せて、鬨の声を上げたのであった。

 ここで、敵の新田方の陣を見渡すと、無動寺谷の麓から湖の波打ち際まで、空堀を2丈(約6メートル)あまり掘り通して、要所要所に橋を渡し、岸の上に塀を築き、木戸、逆茂木で守りを固め、左右の石垣にまたがらせて作った渡櫓や、高く築いた高櫓を300余個所に設けていた。塀の上から新田の紋である中黒を記した旗が30本以上翻り、山を下ってくる風に吹かれて龍蛇のように見えた。その下に、陣屋を並べて、雨を防ぐために油を塗った幕を引き、鎧をさわやかに身につけた兵が2,3万騎、馬を後ろにつないで、軍勢ごとに並んでいた。
 無動寺谷の麓である白鳥の方を見ると、千葉、宇都宮、土居、得能、四国、中国の武士たちが、このあたりを守っている様子で、結城の左巴、宇都宮の右巴、千葉の月に星、河野の折敷に三文字、その他の旗が60本以上が梢越しになびいていた。その陰に兜の緒をしめた兵3万余騎が、近づくと敵の側面から襲い掛かろうと、馬の轡を並べて控えていた。
 さらに琵琶湖の方を見ると、西国、北陸地方、東海道の水上の戦いに慣れた武士たちと見受けられる紋を書き記した旗300本余りが見え、それぞれの舟に乗った兵を合わせると数万人余り、それぞれが弓戦の支度をして、戦いが始まれば側面から矢を射かけようと待ち構えている。

 寄せ手の方が大軍であったのだが、敵の勢いに気勢をそがれて、矢の届く距離にまで近づこうともせず、大津、唐崎、志賀の里の300か所あまりに陣を取って、遠攻めにしたのであった。

 持明院統の皇族を戴いて、大義名分を獲得した足利方であるが、依然として戦意は高くない。これまで何度も書いてきたように、出来るだけ自分の力を温存して、必死に戦うことはないという方が当時の武士としては普通の態度である。宮方は、比叡山の武力を頼りにして、戦いを続けようとしている。戦いの常として、高いところから低いところの敵を攻める方が有利であるが、山の上は武器や食料の補給がむずかしいという問題がある。しかも比叡山には普通以上の数の人間が集まっているので、長期戦になればなるほど、このあたりの事情は深刻になるだろう。その一方で、全国的に家督や領地をめぐる争いが頻発しているから、宮方に呼応して兵を挙げようという武士には事欠かないのも確かな事である。それで、宮方としては、戦いを長期化させることで、足利方の内部分裂を誘うという戦略にしか勝利の見通しはない。個別的な戦闘では有利な展開を見せる可能性のある宮方が、その優勢を長期的に持続できるかが問題である。 
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