『太平記』(167)

7月16日(日)曇り

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から東上した足利尊氏・直義兄弟の率いる軍勢は、中国地方から兵庫まで後退してここで一戦を交えようとしていた後醍醐天皇方の新田義貞と衝突し、新田軍はよく戦ったが衆寡敵せず、退却を余儀なくされた。このため、後醍醐天皇は廷臣や自分に従う武士たちとともに比叡山に向かわれた。持明院統の花園法皇、光厳上皇、豊仁親王は、比叡山に赴く途中で、足利方の武士たちに助けられ、8月には豊仁親王が即位されることになる。これは持明院統の皇族を天皇に推戴することによって、朝敵となることを避けようという尊氏の考えによるものであった。
 もともと天照大神が伊勢に鎮座されてこの国の主となられたときに、日本に仏法が広まることで自分たちの力が失われることを恐れていた魔王たちに対して、自分は仏法には近づかないと約束され、それに感激した魔王たちが、天照大神の子孫である方々に反旗を翻すものがいれば、自分たちが滅ぼすと誓ったという経緯があった。そのような朝敵の例として、神武天皇の時代に巨大な蜘蛛がいて、人々を苦しめたが、官軍によって滅ぼされた。

 『太平記』の作者は、大蜘蛛の次に、天智天皇の時代に、藤原千方(ちかた)という朝敵が出現したという話を語る(藤原千方は、実在の人物で、既に15巻で大ムカデを退治したという説話の中に登場し、またこの後にも平将門を討伐したと語られる――これは歴史的事実である――俵藤太こと、藤原秀郷の孫であるから、大変な時代錯誤である。そもそも藤原という姓は、天智天皇の股肱の臣であった中臣鎌足が初めて与えられたものである)。
 千方は金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼(おんぎょうき)という4つの鬼を使っていた。金鬼は、その体が堅固にできていて、矢を射ても矢が突き刺されない。風鬼は、大きな風を吹かせて、敵の城を吹き破ってしまう。水鬼は、国隋を興して、敵を溺れさせる。隠形鬼は、その姿を消して、突然敵に襲い掛かる。こういう神通力をもつ鬼たちであったので、普通の人間の力では防ぐことができず、伊賀、伊勢の2つの国は千方の勢力範囲となってしまい、天皇のまつりごとに従おうとする者がいなくなった。

 ここに紀友尾というものが、天皇の宣旨を頂いて伊賀の国に下り、一首の歌を詠んで、鬼たちにそれを伝えた。
 草も木もわが大君の国なればいづくか鬼の棲家なるべき
(日本の国土は草も木もすべて帝のものであって、鬼の住処などあろうはずがない。)
 4つの鬼は、この歌を見て、「ということは、我々が悪逆無道の家臣のいうことを聞いて、善政有徳の帝に背いたということは、天罰を逃れる場所がないということだ」といって、たちまちに方々に逃げ去ってしまった。そのため千方は勢いを失い、やがて友尾に討伐されたという話である。
 紀友尾というのは、紀貫之や友則の一族ということであろうが、岩波文庫版の脚注によると不詳だそうである。

 さらに、平将門の話が紹介される。朱雀院の時代に、平将門というものが、東国に下って下総国相馬郡(現愛の茨城・千葉両県にまたがる地)に都を立て、勝手に平親王と号して、独立政府のようなものを作り上げた。朝廷は軍を派遣して総力を挙げてこれを討伐しようとしたのだが、将門の体は鉄でできていて、矢を射ても突き刺さらず、劒や鉾で斬りつけても怪我をしない。そこで朝廷の諸卿が相談した末に、仏教の守護神である四天王の像を鉄で作り、比叡山にこの像を置いて、四天合行の法という四天王を本尊として行う修法を行わせたところ、天から白羽の矢が一筋下りてきて、将門の眉の間に立った。その矢が抜けずに将門が苦しんでいるところを、俵藤太秀郷が首をはねた。

 その首は、獄門にかけられたのだが、3か月というもの、目は開いたままで、顔色も生きている時のままで、常に歯ぎしりをして、「斬られてしまったわが五体はどこにあるのか。ここにやってこい。また首と一緒になってもう一戦戦おう」と夜な夜な呼び掛けていたので、聞く人はこれを怖がっていた。そのころ、藤六というものが道を通ったのであるが、このうわさを聞いて
 将門は米かみよりぞ斬られける俵の藤太が謀(はかりごと)にて
(将門の首は、俵藤太のはかりごとでこめかみから斬られた。こめかみと米を掛け、米と俵は縁語である。)
と詠んだ。(歌に感心した)首がにやりと笑ったのであるが、その瞬間に目はふさがり、屍は朽ち果ててしまった〔首のことを語っていて、首と切り離された屍のことは語られていなかったので、この記述は奇妙である。〕
 この説話、小学校5年生の時に、社会科の時間で先生が話されたのを覚えているのだが、どうも説明が十分でなかったような気がする。教師たるもの、しっかり予習すべきだという例として記憶に残っている(自分が教師をしていたころに、予習不十分な授業をずいぶんしたことを棚に上げている!!)

 朝敵となって滅ぼされたものはこれら3例だけではないと、『太平記』の作者はさまざまな人物の名を列挙する。岩波文庫版の脚注は『平家物語』巻五「朝敵揃へ」に類似していると記している。名前を列挙した後で、「悪は滅びる」とその末路をまとめている。作者がいいたいのは次のところであろう。

 以上のことがあって、尊氏がこの年の春に、関東八か国の多句の武士たちを率いて上洛したけれども、朝敵という汚名を着せられていたので、私的な望みに基づく武運はやはり長続きするものではなく、数度の合戦に敗北して九州に逃亡することになった。そこで今回はその先非を悔いて、一方の皇統(持明院統)をお立てし、朝敵征伐の院宣に従ったので、威勢に道理が加わり、偉業が道理のもとに達せられようとしていると、人々はみなこの挙を軽く見なかった。こうして東寺が上皇の御所となり、武将が城郭を構えて警護して防備を固めたので、人々は安心したのである。これは比叡山から敵が攻め寄せてきたのであれば、小路小路を遮って、縦横に合戦をするための備えとなるものであると、この城郭を構えたのであった。

 京都の北の比叡山は後醍醐天皇を支持しているが、南の東寺、醍醐寺は尊氏寄りの立場をとっている。比叡山は天台宗、東寺、醍醐寺は真言宗であるが、宗派というよりもそれぞれの寺院の僧侶たちの意向の方が大きく影響しているようである。後醍醐天皇が天皇親政の政治の復活を考えられていたのに対し、持明院統の皇族方は上皇の1人が<治天の君>として政治をとられるという平安末期→鎌倉時代の政治の在り方を理想とされていたようである。従って、持明院統を代表されるのは、光厳上皇であった(尊氏に院宣を下したのも、上皇である)ことを重視すべきである。
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