倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(8)

7月12日(水)晴れ、暑し

 白村江の戦における敗北は、律令体制形成という日本史上の一大画期のきっかけの一つとなった事件であるが、韓国、あるいは中国の歴史家たちはこの出来事をそれほど大きく評価していないことを倉本さんは紹介する。盧泰敦『古代朝鮮 三国統一戦争史』によると、白村江の戦は唐にとっては特に大きな意味を持つ戦闘ではなく、『旧唐書』の本紀には記事がなく、『新唐書』の本紀にわずかな記事があるだけで、それも倭国は登場していないという扱いである。「唐にとっては、そもそも主要な戦争相手は高句麗だったのであり、百済は金春秋の要請によって滅ぼしたに過ぎない。白村江の戦というのは、すでに滅ぼした百済の残存勢力に荷担して出兵してきた倭国軍を苦もなく壊滅させたに過ぎないのであって、戦略的にもさほど重要な戦闘ではなかったのである」(153ページ)。韓国でも学校では白村江の戦を教えていないというくらいで、「百済は現代の韓国にとっては滅んでしまった地方政権にすぎず、その復興のための戦闘などどうでもいい」(152ページ)というのが一般的な見解のようである。

 しかし、倭国にとっては、これは大きな意義をもつ戦闘であった。倉本さんは、中大兄皇子と藤原鎌足がなぜこの戦争に踏み切ったかについての4通りの推測を列挙している。①援軍の派遣を要請してきた百済遺臣の使者たちの報告を信じて、本気で勝つつもりでいた。②兵力や兵器、それに指揮系統の整備レベルから考えて、負けるかもしれないが、負けたとしても唐がさらに倭国に侵攻してくる可能性は低く、対外戦争によって国内を統一することが容易になるのではないかと考えていた。③敗北はあらかじめ予想できていたが、勝敗を度外視した、戦争を起こすこと自体が目的で、それによって国内の支配者層を結集させ、中央集権国家の完成をより効果的に行うことをもくろんでいた。④中央集権国家の建設に反対していた豪族層を戦争に動員することにより、取り除いて、その後の改革を容易にしようとした。
 一方で、勝敗を全く度外視した派兵ではなかったことは明らかであり、その一方で、負けても構わない、戦争を起こすこと自体が目的だったという側面も否定できないという。「そしてこの敗戦以降、倭国は新たな段階の政治制度の整備に向かうことになる」(158ページ)。
 他方、新羅にとっては、三国統一戦争の結果「時代降臨」(小国が大国に事(つか)え、隣国とは対等に交わること)という朝鮮半島王朝の対外政策の基本的枠組みを形成することに大きな影響を与えた戦争であった。

 天智2年(663)8月27日における白村江の戦によって、百済再興の望みを絶たれ、9月7日に国(百済の故地)を去る決心をした人々は、25日に船を発して、倭国へと向かった。その数は、当時の倭国の人口からすれば、とんでもない数に上ったと推測される。彼らは近江や東国に配され、農地の開発にあたった。その中で、百済の王族は、倭国で優遇され、それなりに高い地位を保つ。枚方市には、彼らの建立した百済寺や百済王神社が残る。貴族たちもそれなりに厚遇されたが、その事が倭国豪族層の反感を生み、天智大王に対する批判や不満につながったという皮肉な結果ももたらした。〔8世紀に活躍した万葉歌人の山上憶良や、東大寺の大仏の造立の指揮を執った国中公麻呂など、百済亡命者の孫、曽孫の世代に当たる人々については、倉本さんは触れていない。そこまで時間がたってしまうと、もはやその由来を問題にすべきではないという考えかもしれない。〕

 百済の遺臣たちを応援すべく海を渡ったものの惨敗を喫し、かろうじて生き残った兵士たちも帰国していたはずである。『日本霊異記』にはそのような地方豪族の説話が記載されている。倉本さんが引き合いに出している記事はこれだけで、他にあまり記録が見いだされないようである。〔記録がないからと言って、そういう兵士たちがいなかったわけではなさそうである。都合の悪い記録は残さないというのは昔から、変わらない権力の体質のようにも思われる。〕
 その一方で、「さらに苛烈な運命」(162ページ)にさらされたのは、唐や新羅軍の捕虜となってしまった兵士たちである。「無事に帰還できた稀有な例のみ、日本側の史料に記録されているが、異国で命を終えた者も、膨大な数にのぼったことであろう」(162ページ)という。この書物にはそういった例がいくつか紹介されているが、驚くべきことに白村江の戦から44年も経た景雲4年(707)5月に唐から帰国し、「その勤苦を憐れんで」(166ページ)を賜り物を頂いた人物の例さえみられるという。

 当時の倭国の指導者にとって、白村江での惨敗は、戦争の終結ではなく、それに続く唐と新羅の倭国侵攻の可能性を大きくするものと認識されていたと倉本さんは論じている。「663年8月28日以降の日々は、彼らにとっては「戦後」だったのではなく、いつ果てるとも知れない「戦中」だったのである。・・・戦中、しかもいつ終わるかもわからない戦中であって、異様な緊張が高まっていたものと考えるべきである。」(167ページ)

 そこで講じられたのが、西日本の各地に防衛施設を建造し、また防人を配置するという施策である。天智6年(667)3月には都が近江大津宮に遷された。「「いかさまに思ほせしめか(どのようにお考えになったものか)」と称された(『万葉集』)畿外(トツクニ=外国(げこく))への遷都であったが、万一、唐・新羅連合軍が倭国に侵攻してきた場合に備えてのものであったことは間違いのないところである(大津から琵琶湖を北上して北陸にでも逃避するつもりだったのであろう)」(169ページ)。

 天智7年(668)正月に中大兄皇子は正式に即位し(ということは、これまでは称制)、一方で海外勢力の侵攻の危機感をあおり、他方で国内改革を推進して、支配者層の再編成と地方支配の徹底を目指した。紆余曲折はあったが、その後の倭国は中央集権的な国家建設への道を歩むことになる。その一方で唐・新羅との外交関係の修復などの努力も行われるが、それは国内における政治的な変化とも連動するものであったということについてはまた次回。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR