『太平記』(166)

7月10日(月)晴れ、暑い

 建武3年(延元元年、1336)春、いったん占領した都から宮方の軍勢の反攻に敗退して、九州に落ち延び、勢力を回復した足利尊氏・直義兄弟は再び上洛を目指し、5月25日に兵庫の戦いで新田義貞の軍を破って、都に向かった。都の後醍醐天皇は比叡山へと向かわれた。持明院統の花園法皇・光厳上皇・豊仁親王は、比叡山に赴く途中で足利方の武士に助けられた。6月15日に豊仁親王が天皇として即位する式を挙げた。(光明天皇である。)

 『太平記』の作者はここで、天皇の位をめぐる一種の神話を語りはじめる。
 「それ日本開闢の始めを尋ぬれば、二儀すでに分かれ、三才漸く顕れて、人寿2万歳の時、伊弉諾、伊弉冉の二尊、夫婦となつて、天の浮橋の下にて妻夫交合して(みとのまぐわえ)して、一女三男を生み給不。」(第3分冊、97ページ、そもそも日本の国の始まりの様子を訪ねてみると、天地の二儀が既に分かれ、天・地・人の三才がようやく出現して、人の寿命がまだ2万歳であったころ、伊弉諾尊、伊弉冉尊の二柱の神が、夫婦となって、天の浮橋の下で夫婦としての交わりをされて、一女三男をお生みになった)。その一助というのは、天照大神、三男と申すは月神、蛭子、素戔嗚尊である。〔「古事記」では黄泉の国に、火神を生んだ際のやけどで死んでしまった伊弉冉の尊を訪ねに行って、戻ってきた伊弉諾尊が日向の橘の小門(おど)で禊をされ、左の目を洗った時に天照大神、右の目を洗った時に月読命、鼻を洗った時に素戔嗚尊が生まれたと記されているが、『日本書紀』には様々な異説が描かれていて、その中には伊弉冉の尊から三貴子が生まれたとするもの、さらに蛭子が生まれたとするものなどがあったと記憶する。〕

 第一の御子である天照皇太神は、この国の主となって、伊勢国度会郡、御裳濯川(みもすそがわ=五十鈴川)の神域の川瀬の下の巌にご降臨になってより、あるときは神が仏となって、次々に衆生を救うための変化の姿を現され、あるときは本来の神に戻って、塵のように無数の国土の民に利益を与えられてきた。これすなわち、本地の神が垂迹の仏よりも勝るということである。

 ここに欲界六天の第六天の魔王が鳩(あつま)って、「この国に仏法が広まると、魔力の効き目が少なくなって、その力を失ってしまうだろう」と天照大神の応化利生(神仏が姿を変えて衆生を仏道に導き利すること)を妨げようと欲した。すると天照大神は魔王たちに邪魔をさせないために「われ三宝に近づかじ」(第3分冊、98ページ、私は仏教に近づかないようにしよう。三宝は仏・法・僧で、仏教のことを「三宝」ともいう)と誓われた。

 このため、第六天の魔王は、怒りを静めてその五体から血を出し、「未来の果てに至るまで天照大神の子孫である人をもって、この国の主とすべきである。もし王命に従わないものがあって、国を乱し民を苦しめるようなことがあれば、我々と十万八千の従者たちが、朝でも夕方でも駆けつけて天罰を与え、その命を奪うであろう」と固く誓い、誓約書を書いて天照大神に差し上げた。これが三種の神器の一つである八坂瓊勾玉に関する異説である。

 実際に、伊勢神宮の内宮と外宮の様子は、他の社壇と異なって、錦の帳に仏をかたどる鏡をもかけず、念仏読経を行うこともなく、僧尼の参詣を許していない。これらすべては、伊勢神宮が天照大神の魔王との約束を違えることなく、俗世の衆生を教化し仏縁を結ばせて救う手立てをひそかに隠したものなのである。
 つまり、天照大神は魔王たちに自分は仏教に近づかないと約束し、事実伊勢神宮では当時の神仏混交の他の寺社とは違って、仏教色は排されている。そして、魔王たちは天照大神の子孫である国の主たちを守り続けると誓約した。その一方で、伊勢神宮以外出は仏教は広まっているので、魔王たちが悪いことをできる範囲は限られているわけである。天照大神の作戦勝ちということである。

 さて、このあと、『太平記』の作者は、天照大神の子孫に反抗した者の末路をいくつか語るのである。「天照大神より以来、継体の君九十六代、その間に朝敵となつて亡びし者を数ふれば」(第3分冊、98-99ページ、天照大神以来、皇位を継がれた帝は96題にわたり、その間に朝敵となって亡びたものを数えると。『太平記』の作者は後醍醐天皇を96代と計算していた。なお、中世には「百王説」と言って、第100代の天皇で日本は滅びるという俗信があった)、まず神武天皇の御代の天平4年に(これはとんでもない大でたらめで、天平は聖武天皇の時代の年号である)、紀伊国名草郡に長さ2丈(約6メートル)あまりの蜘蛛「があった。手足が長く、波の人間以上の力をもっていた。網を張ること数里におよび、道行く人を食い殺していた。しかし、天皇により派遣された軍勢が鉄の網を張り、鉄の湯を沸かして四方から攻めかかったので、この蜘蛛はついに打ち負かされて、その身はズタズタに割かれ、しかも爛れてしまったのである。

 以上、読んできて、『太平記』の作者がいろいろなことを知っていること、その中にはずいぶん荒唐無稽な、あるいは歴史的につじつまの合わない話もあることに気付かれたと思う。しかし、それが歴史的な事実に反するとか、不合理だとか批判するよりも、そういう多様な説話を含んで、『太平記』の世界が出来上がっているということの文学史的、さらには思想史的な意義の方に目を向けるべきではないかと思う。『太平記』は、この後まだしばらく、不思議な力をもっていた「朝敵」がそれ以上の力によって滅ぼされてきた歴史を語り続ける。
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