放浪記

7月9日(日)晴れ、暑し

 神保町シアターの開館10周年特別企画「神保町シアター総選挙2017」の中の特集「女優・高峰秀子」より『放浪記』(1962、宝塚映画、成瀬巳喜男監督)と『細雪』(1950、新東宝、阿部豊監督)の2作を見る。このところ、映画批評を書いていないので、『放浪記』を取り上げることにする。この「総選挙」で上映される34作品のうち、成瀬巳喜男の監督作は『流れる』、『あらくれ』、『放浪記』、『晩菊』、『驟雨」、『妻の心』、『女が階段を上る時』、『浮雲』と8本、高峰秀子の出演作は『流れる』、『細雪』、『あらくれ』、『無法松の一生』、『放浪記』、『妻の心』、『女が階段を上る時』、『浮雲』と8本、このうち6本が重なっている。神保町シアターには成瀬巳喜男監督、高峰秀子出演の映画がよく似合うといってもいいのではないかと思う。『放浪記』を取り上げる理由の1つは、成瀬=高峰コンビに対する興味であるが、それ以上に私は詩人としての林芙美子(1903-1951)が好きだし、小説作品として『放浪記』もよく読んできたということがある。(『放浪記』のほかに『浮雲』も芙美子の原作に基づいているのはご承知だと思うが、『晩菊』も芙美子の短編を原作とする映画、このほかの上映作品で千葉泰樹監督の『下町(ダウンタウン)』も芙美子の原作の映画化である。)

 『放浪記』は昭和5年(1930)に発表された林芙美子の出世作で、昭和10年(1935)に、木村荘十二監督、昭和29年(1954)に久松静児監督によって映画化されたそうである。この映画は林芙美子の小説『放浪記』だけでなく、芙美子の仲間の1人であった菊田一夫(1908-1973)による舞台化をも原作としている。その後、森光子が出演記録を樹立することになった舞台劇である。それで、芙美子の伝記的な事実を付け加えた部分もあるようだし、最後の方で作家として成功を収めた後の彼女の姿も描いている。ただ、登場人物の名前は実名を変えてあり、友谷静栄が日夏京子になっているくらいだから、モデルの詮索はご無用ということであろう。その中で、南天堂という実在の書店名が出てくるのがかえってご愛嬌になっている。
 行商人の子どもとして幼いころから各地を転々と放浪した芙美子の人生、同じく丁稚奉公をしたり、苦学を続けて劇作家として成功した菊田一夫の人生、さらに子役からたたき上げて大女優になっていった高峰秀子の人生は、それぞれの子どものころからの苦労という点で、重なり合うところがあるようである。作品中には、芙美子の文章の高峰によるナレーションがしばしば挿入されていて、高峰が芙美子の生き方をどのように受け止めていたかを知るもう一つの手がかりとなっている。

 映画は芙美子(映画ではふみ子)の少女時代を描いた後、彼女が上京して母親(田中絹代)と行商をしながら生活するが、母親を義理の父親の許に帰し、セルロイド工場で働いたり、カフェの女給をしたりしながら、初めのうちは詩や童話を書き、その後は小説を書き続けて、理解者を得て、成功していく過程を、俳優兼詩人の伊達晴彦(仲谷昇)、作家志望の福池貢(宝田明)との出会いと別れ、伊達の最初の妻でその後またよりを戻すが、文学仲間の白坂五郎(伊藤雄之助)のもとに走る日夏京子(草笛光子)との、男関係と文学の両方での張り合いなどを交えて描き出す。貧乏の中で創作に励む様子が、衣食住をめぐる細かい描写に支えられている一方で、登場人物の人間関係だけが前面に出て、社会や文学の動きがいま一つ見えにくいという欠点はあるかもしれない。

 おもしろいのは1954年の映画化の出演者であった伊藤雄之助と多々良純が役柄は違うがこの映画化でも出演していること、この作品に端役(カフェの女給の1人)で出ている林美智子が1964年から1965年にかけて放映されたNHKの朝ドラ『うず潮』で林芙美子の役を演じたことである。菊田一夫が林芙美子と知り合いであったということを含めて、人間の縁のつながりということを考えさせる。

 映画の中で、芙美子が自分は赤旗系は嫌いだと言っている場面があって、実際に大正の終わりから昭和の初めにかけてのアナーキストと共産党系の文学者の対立の中で、芙美子は岡本潤、小野十三郎、高橋新吉、辻潤、壷井繁治、平林たい子といった詩人たちとともにアナーキスト系に属していた。根っからの貧乏人で、底辺で苦労を重ねた彼女が、頭の中での思索から社会主義へと向かった中野重治や中条(宮本)百合子らの文学の方向に反感をもっていたのは、なんとなくわかる。すでに指摘したことであるが、成瀬の細かい生活描写がそのような林の文学のありようの証言となっている。
 
 その一方で、原作を読めばわかるように、林芙美子は上京後、東京を離れたり、あちこちを『放浪』しているのだが、映画ではその範囲は東京の中でとどまっている。原作には、直江津にあったいかやという旅館が出てきたりして、その放浪の様が生々しく描き出されているのだが、そのような雰囲気は映画では希薄になっている。『放浪記』と言いながら、その放浪は職業を転々としたり、男性遍歴を重ねたりすることになってしまって、地理的な放浪ではなくなっていることが惜しまれる。 
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