倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(7)

7月5日(水)晴れたり曇ったり、台風一過、気温上昇

 隋、その後を受けた唐王朝という中国を統一した政権の出現は北東アジアの高句麗、新羅、百済および倭国に対して重大な影響を及ぼした。新羅は唐に依存することで他の諸国と対抗しようとしたのに対し、他の3国は連携して唐・新羅に対抗しようとした。
 660年に百済が滅亡するが、その遺臣たちが復興を目指して挙兵し、倭国に対し百済最後の王であった義慈王の弟の余豊璋の帰国と援軍とを求めてきた。これに応じた斉明大王以下の倭国首脳は、斉明7年(661)に近畿地方を離れて西に向かい、3月には九州に達して戦いの準備を進めたが、7月に斉明が崩御する(それに先立つ6月に新羅の武烈王がなくなり、文武王が即位している)。後を継いだ中大兄皇子(→天智大王)は8月に第一次の遠征軍を組織し、9月に5千余人の軍兵に護衛させて豊璋を送り返した。この第一次の遠征軍はその大部分が帰還したが、一部は百済に留まっていたと考えられる。
 天智2年(663)3月に中大兄は第2次の百済救援軍を編成、2万7千という倭国の全力を傾けた兵力が海を渡り、百済ではなく、新羅を目指して侵攻した。一方、唐から派遣されていた劉仁軌は本国に兵の増員を要請し、おそらくは海軍を主力した援軍を得て、百済軍を破りながら南下してきた。そのころ、百済では倭国から帰国して王位に着いた豊璋と、復興運動の指導者であった鬼室福信の間で対立が生じ、豊璋が福信を殺害するという内紛が起きてますます政権は弱体化していた。
 唐・新羅連合軍は水陸両面からの侵攻計画を立て、水軍は白村江で陸軍と合流して、百済の本拠地である周留城を攻撃するという作戦を取り上げた。

 その白村江がどこにあるかをめぐって諸説入り乱れている。通説では錦江河口付近とあれるが、東津江河口という全榮來の説がだというではないかと著者は論じている。この東津江河口とその付近の海岸の現状をめぐる著者の報告はこの書物の中でも特に興味深い箇所である。
 8月に倭国は、駿河の地方豪族である廬原(いおはら)臣を将軍とする1万余人の第三次派兵を行った。この軍勢は直接百済に向かったもので、当初から旧百済領に駐留する唐軍、あるいは東本国から新たに派遣されてきた水軍との対決を目的とした出兵であるとみられている。8月13日に周留城にいた豊璋王は倭軍を迎えに行くと称して、白村」に赴き、残った将兵たちの士気を阻喪させた。問題は既に派兵されていた第二次百済救援軍の行方で、8月の白村江の戦に間に合って第三次派兵軍と合流して唐・新羅連合軍と戦ったのか、間に合わなかったのかは分からない。いずれにしても、この第二次派兵軍の将軍たちの名はその後の歴史には登場していないという。もし、第三次救援軍が第二次救援軍と合流できず、単独で唐・新羅連合軍と戦ったとすれば勝敗は戦う前から明らかであった。

 8月17日、唐・新羅連合軍の陸上軍は周留城に至り、これを包囲した。一方、水軍は軍船170艘を率いて白村江に戦列を構えた。倭国の水軍の戦闘がようやく白村江に到着したのはそれから10日を経た8月27日のことであった。その水軍は『旧唐書』劉仁軌電によると、「舟400艘」、『三国史記』新羅本紀・文武王11年に引かれた新羅の文武王が唐の総管に送った答書によると「倭船千隻」とある。
 「数は唐の船よりも多いのであるが、その大きさや装備は、とても比較できるものではなかったことであろう。」(145ページ)と考えられる。唐の戦艦は、鉄甲で装備された巨大な要塞であるのに対し、倭国の「舟」は文字どおり小型の準構造船(竜骨をもたず、刳船の両舷に舷側板を組み合わせたもの)だったと倉本さんは推測している。
 多数の小舟が長距離の外洋を進軍するとなると、当然のことながら速度に時間が生じることになる。この27日、長い帯のような倭国の水軍の先頭が戦列を構えて待ち構えている唐の水軍のただなかに達したのである。『日本書紀』が
 日本の軍船の先着したものと大唐の軍船とが会戦した。日本は敗退し、大唐は戦列を固めて守った。
と記しているように、勝敗以前の問題であった。倭国軍は先着順に唐軍の餌食となってしまったのである。

 27日から28日にかけて、倭国の水軍が続々と白村江に到着したものと思われる。普通であれば、前日に敗戦していた場合、その原因を分析して、次の決戦の作戦を練るものであろうが、倭国軍にはそういった形跡が見られない。
 この理由として倉本さんは、対外戦争の経験の不足から、「ろくな戦略も戦法も考えずに、やみくもに突撃を繰り返す、そのうちに英雄的な人物が現われて戦闘に一気に決着をつける」(146ページ)というような戦いしかできない倭国→日本の軍事的な問題点を挙げている。基本的な議論としては、日本にはまともな軍事理論は育っていなかったという乃至政彦『戦国の陣形』(講談社現代新書)に共通する認識が示されている。
 ただ、次のようなことも考えてよかろう。倉本さんも論じられているように、将軍たちの間には上下関係がなく、軍隊の軍令・指揮系統が出来ていない。だから、先に到着した前軍の経験は中軍・後軍に伝わりにくいし、おそらくは前軍の将軍はすでに戦死していたので、前日のことなど構わずに後から来た軍隊は突撃を行ったのであろう。

 28日、倭国軍は唐の水軍と決戦を行った。統制もなくただやみくもに突進する倭国軍に対し、唐軍は陣を固め、倭国の舟を包囲して攻撃した。『旧唐書』の劉仁軌伝によれば、唐軍は火攻めを行ったという。また海水の干満の差が利用されたという考えもある。満潮の時に白村江に攻め込んだ倭国軍が、干潮で立ち往生してしまい、火攻めを受けたというのである。落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書)によると、中国の北方では陸上の戦い、南方では水上の戦いがたくみであったというが、統一政権ができたことで、両方の長所を備えた軍隊が組織されるようになっていた。軍船の装備については既に触れられていたが、武器においても中国の方が優れたものを備えていたことは容易に推測できる。

 白村江の敗戦から10日後の9月7日、周留城もついに陥落した。北方の任存城で最後まで抗戦していた遅受信もついに投降し、「百済の余燼はことごとく平定された」(150ページ)。こうして百済は完全に滅亡したのである。

 白村江の戦の敗因として、小出しに兵を送るという戦略の欠陥、豪族軍と国造軍の寄せ集めにすぎないという軍事編成の未熟さ、いたずらに突撃を繰り返すという作戦の愚かさ、そして百済復興軍の内部分裂などが指摘されている。それはこれまでの内戦の経験の身に依存し、中国王朝の直接介入という今回の状況の重大さを十分に考慮していないことからくる認識不足の結果であった。
 倉本さんはこれらの通説を受け入れつつ、倭国の政権が5世紀の初頭に高句麗に惨敗した記憶を忘れ去っていたことが影響していると述べる。「自己に都合のいい経験だけを記憶し、都合の悪い経験は忘却するという、人間が誰しも陥りがちな思考回路に、今回もまんまと嵌まってしまったということになる」(152ページ)。

 白村江の戦の敗戦は古代の倭国→日本最大の敗戦であり、軍事的な失敗であった。(次回に述べるように、東アジアの歴史ということになると、局地的な小事件にすぎないという認識が一般的だそうである。) その倭国→日本の政治と社会に及ぼした影響は甚大なものとなるが、それらについてはまた次回触れるつもりである。 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR