倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(6)

6月28日(水)午前中雨、午後になってやむ

 中国では589年に北朝の隋が南朝の陳を滅ぼし、(西晋による短期の全国統一は別として)後漢の滅亡以来約400年ぶりに統一王朝が出現した。隋は618年に滅びて、唐に代わるが、中国に強力な統一政権が出現したことは、北東アジアの諸国に新たな対応を迫るものであった。朝鮮半島の中部に勢力をもつ新羅が唐に依存することによって、他の諸国に対抗しようとしたのに対し、朝鮮半島の北部から中国の一部にまで勢力をもつ高句麗は隋に引き続いて唐とも対立し続けた。百済は高句麗と連合しながら、新羅・唐に対抗し、また倭国にも応援を求めていた。倭国は百済、高句麗と同盟して新羅・唐に対抗しようとした。
 660年に唐・新羅の連合軍の侵攻によって百済は滅びたが、その地方統治体制はそのまま残っていたので、その年のうちに百済の遺臣たちが反乱を起こし、彼らの指導者である鬼室福信は倭国に滞在していた百済の王族余豊璋の送還と援軍を求めてきた。斉明7年(661)年正月に斉明大王以下の倭国首脳は近畿地方から西に向かい、3月には九州に到着して戦闘への準備態勢を固めたが、7月に斉明が崩御する。そこで中大兄皇子が称制を行い、戦闘に備えた。

 この年(中大兄皇子称制元年=663)8月に第一次の百済救援軍が編成され、前軍の将軍に安曇(あずみ)比羅夫と河辺百枝、後軍の将軍に阿部引田比羅夫・物部熊・守大石が選ばれ、百済救援のために武器と食料を送った。阿部引田比羅夫は以前に北国経営に手腕を発揮した人物で、「筑紫太宰帥(そち)」の任にあったとされる。この救援軍は地方豪族である国造に率いられた筑紫の兵を派遣したものと推測されている。救援軍の将軍の中に古来から倭王権の軍事を担ってきた大伴氏や、外交・外征に特色をもつ紀氏などの名は見えない。蘇我氏も同様である。〔これより100年以上以前に、北九州の豪族である筑紫磐井が新羅と同盟して中央政権に反乱を起こしたことが、この書物の68~70ページに記され、その子孫と思われる人物が新羅の捕虜になったが、仲間の1人が犠牲になって帰国できたことが163~165ページに出てくる。いろいろと想像の膨らむ部分である。〕

 倉本さんは鬼頭清明の説に従い、この救援軍がフラットな編成であり、官僚的な身分秩序が設けられていなかったと論じる(もう少し議論を進めれば、軍隊としての命令・指揮系統が確立されていなかったということである)。それは当時の倭国の支配体制に相応したものではあったが、大国・強国との戦闘にふさわしいものではなかった。

 中大兄は当時の倭国の官位の最高位である織冠を豊璋に授け、また多蒋敷(おおのこもしき、『古事記』の編者である太安万侶の祖父)の妹を妻として娶せ、狭井檳榔(さいのあじまさ)と秦田来津(はだのたくつ)に5,000余人の軍兵を率いさせて護衛とし、百済に送らせた。豊璋が国に入ると、福信が迎えてこれを廃し、豊璋は福信に国政を委ねた。この間、新羅軍は食料補給に苦しみ、百済遺臣の反乱は優勢のうちに推移していた。これらの第一次百済救援軍は、救援武士を送り、豊璋を護送することだえkが目的で、任務が終わると、すぐに百済から帰国したと推定される。しかし、そのまま百済の地に残り、後続の救援軍と合流したものもいたと考えられる。

 翌天智元年(662)3月に唐・新羅が高句麗を攻め、高句麗の要請を受けた倭国軍は疏留城(そるさし、周留城、州柔城とも)に拠ったため、唐も新羅も高句麗を攻められなかったと『日本書紀』に記されているという。この疏留城がどこにあったかをめぐっては諸説あるようであるが、百済国内の城だと考えられ、そうすると、地理的に高句麗からは遠いので、その軍事的な効果はかなり割り引いて考える必要がありそうである。5月に豊璋が百済王の地位に着いたが、12月になると、倭国軍と豊璋や福信との間で意見の違いが表面化する。彼らが拠点としている州柔は防戦のための場所で、農耕や養蚕に適していないので、長くいると民が食物にも事欠くということから、平地で豊かな避城(現韓国全羅北道金堤市)に遷ろうとしたが、田来津に反論されたという。それでも豊璋は都を移してしまう。「倭国軍の意見を聞かない愚かで専制的な百済指導者という文脈で、やがて来る敗戦の責任を彼らに押しつけるという『日本書紀』の主張なのであろうが、多数に膨らんだ兵や民の生活を思う豊璋と、あくまで外国部隊である倭国軍との基本的な立場の相違とみることもできよう」(131ページ)と倉本さんは論じている。〔この移動を主に主張したのが豊璋であったのか、福信であったのかは一考の余地がありそうである。〕 また百済救援軍の将軍が新国王の居地の選定に関与している点が問題で、彼らが単なる軍隊の指揮のみならず、作戦の立案などの点で百済王の諮問にあずかる職権を認められていた可能性も指摘されているそうである。

 既に触れたように、州柔城(疏留城・周留城)がどこにあったのかというのは議論が分かれているが、倉本さんは位金岩城であるとする全榮來『百済滅亡と古代日本』の説を支持している。豊璋・福信らは平地の避城に遷ったのであるが、翌663年2月に百済南部が新羅の攻撃を受けると、ふたたび州柔城に戻ることになる。

 天智2年(663)3月、中大兄は、第2次の百済救援軍(新羅侵攻軍)を編成した。前軍の将軍に上毛野稚子・間人大蓋(はしひとのおおふた)、中軍の将軍に巨勢神前訳語(こせのかんさきのおさ)・三輪根麻呂、後軍の将軍に阿部引田比羅夫・大宅鎌柄(おおやけのかまつか)を配し、2万7千人の兵を率いて、新羅を討つために渡海させた。第1次の派兵が5千余人の規模だったのに対し、今回は本格的な戦闘に対応するための、倭国の全力を傾けた派兵であったと考えられる。6月には新羅の沙鼻(現韓国慶尚南道梁山市)・岐奴江(きぬえ、現韓国慶尚南道宜寧郡)の2城を攻め取っている。これまでの派兵が千人規模の筑紫の軍隊であったのに対し、今回は少なくとも西日本全体におよぶ大規模な豪族軍の徴発が行われていること、また軍事行動の対象が旧百済領ではなく、新羅であったことが注目される。さらに倭国は5月に高句麗に使者を送って、出兵について告げさせた。

 倭国のこのような動きに対し、唐から派遣されていた将軍の劉仁軌はこの5月に本国に兵の増員を要請し、唐は山東省と江蘇省の兵7千を出動させ、孫仁師に率いさせた。この援軍は徳物島(現韓国仁川広域市甕津郡の徳積島)に至った後、百済軍を破りながら南下して熊津城に入り、士気が大いに上がった。この増援軍はおそらく海軍を主力とするものであると推測される。

 そのころ、百済ではまたもや内紛が生じていた。6月に豊璋王は福信が謀叛の心を抱いているのではないかと疑い、不意を襲って殺した(異説あり)。「長年にわたって倭国に滞在し、故国の事情に疎い文人タイプの豊璋と、優れた軍事指揮官として百済復興運動をまとめ上げた実践タイプの福信とでは、本質的に相容れないところがあり、戦況が悪化するにつれて、両者の間に大きな亀裂が生じたということなのであろう」(136ページ) 百済復興運動の中心人物であった福信を殺したことで、百済復興軍はその分裂を表面化させ、大きな軍事的・精神的打撃を受けた。「そこに『救援」にやってきたのが、統制も作戦もない、単なる豪族軍を寄せ集めただけの倭国の『大軍』だったのである。」(137ページ)

 一方、唐軍は作戦会議を開き、水陸の要衝である加林城をまず攻撃すべきであるという意見に対し、百済復興軍の本拠地である周留城を攻略すべきであるという劉仁軌の意見が採択される。この結果、孫仁師・劉仁願と新羅の文武王は陸上から進撃し、劉仁軌および別将の杜爽と扶余隆が水軍と兵糧戦を率いて、熊津江(錦江)から白江(白村江)に行き、陸軍と合流して周留城を攻撃するという作戦が採択された。なお、この扶余隆というのは義慈王の王子で、唐から熊津都督に任じられ、さらに帯方郡公に封じられた人物である。唐の傘下に入って故国に攻め込んできたことになる。

 「これで決戦の場は決した。陸上の周留城と水上の白村江である。」(138ページ)
 内紛を起こして自壊しかけている百済復興軍と、寄せ集めの倭国救援軍の連合軍と、実戦経験豊富なうえに緻密な作戦を立てて進撃してくる唐・新羅連合軍とでは戦う前から勝負はわかっているようなものであるが、当事者には当事者なりの思惑があったことであろう。思いのほか、手間をかけてしまったが、次回はいよいよ白村江の戦いに取り組んだ個所を読んでいくことになる。
  

 
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