寛政の三奇人

6月26日(月)曇り、蒸し暑い

 寛政年間(1789~1800)は、その前半(1787~1793)に老中松平定信によって行われた「寛政の改革」で知られる。1789年にフランス革命が起きていることからもわかるように、この時代の世界は地球規模での変革期を迎えていた。鎖国(海禁)政策をとってきた日本(東アジア諸国)もそのような動きから無縁であることはできなかった。
 江戸時代の中期になると商品経済が発展し、明和4年~天明6(1767-1786)の田沼時代には問屋・株仲間を育成強化し商業資本との結託を図る「重商主義」的な政策がとられたが、その結果として農民の窮乏化と農村の荒廃が生じ、武士もまた困窮、その一方で幕政の腐敗も著しくなった。そこで登場したのが、享保の改革を推進した徳川吉宗の孫である松平定信で、農村の復興を目指す政策を中心に綱紀の粛正を図った。

 改革の効果が見られたのは一時的で、社会の根本的な問題を解決するには至らなかった。寛政2年に定信は朱子学を正統の学問として、この原則に基づく学制改革を行い、林家の私塾であった学問所を官学である昌平黌として再組織し、さらに朱子学によって官吏登用試験を行うとした。これは江戸時代には朱子学が幕府公認の学説であったが、実際には古学派・折衷学派が盛んであったために、教学の刷新を目指したものである。この時登用された3人の学者尾藤二洲(1745-1813)、古賀精里(1750-1817)、柴野栗山(1735-1807)を「寛政の三博士」と呼ぶ。もっとも口の悪い江戸っ子たちは、この3人の名前に助がついているところから、「三助」と呼んだという。(古学派、折衷学派の学者たちへの尊敬の念を失ってはいなかったのである。)

 その一方でこの時代は、安永3年(1774)の杉田玄白らによる『解体新書』の刊行によってその勢いを広げた蘭学、塙保己一らの『群書類従』の刊行作業や、寛政10年(1798)の本居宣長『古事記伝』の完成に見られるような国学の発展の時代でもあった。学問の新しい流れと、社会の現実を何とか打開しようとする情熱が出会ったときに、さらに新しい知的探求が始まる。「寛政の三奇人」と呼ばれる林子平(1738-1793)、高山彦九郎(1747-1793)、蒲生君平(1768-1813)がそれぞれ国学、あるいは蘭学を学び、またこれらの学者と交流していたことは重要に思われる。

 林子平は長崎に3度遊学し、また江戸に出て大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周など蘭学者と交友した。この間に得た海外事情についての知識をもとに、特に北辺からのロシアの脅威に備え蝦夷地の開拓を行う必要を説いた。彼の著書『海国兵談』は彼のこの主張を展開したもので、国防政策をめぐる批判を認めなかった幕府の弾圧を招き、著書の版木は没収され、子平は禁固処分を受けた。この時「親はなく 妻なく子なく 版木なし 金もなけれど 死にたくもなし」という狂歌を作って、六無斎と号したという話はよく知られている。彼が住んだ仙台には、子平町という地名がある。

 高山彦九郎は諸国を旅行して、民衆の窮乏した状態を見聞し、幕政へのひっはん意識を強める一方で、勤皇論の先駆けとなった。彼は上洛するたびに、三条大橋の東詰めで御所を拝んだそうである。東海道の西の終点である三条大橋のたもと(三条京阪駅前)には、彦九郎が御所の方角を伏し拝んでいる銅像が立っている。三条京阪から御所まではそんなに遠くはないし、もっと近くで拝んだ方がよいのではないかとよく思ったものであるが、近くには寄れない理由があったのかもしれない。あるいは人の大勢通交しているところで、このパフォーマンスをすることに意義を見出していたのかもしれない。
 なお、彦九郎は『解体新書』の翻訳者の1人で、刊行されたこの書物には名を連ねていない前野良沢(1723-1803)と仲が良かった。良沢は幼い時に孤児になって、伯父である淀藩の藩医宮田全沢に育てられたが、彼は「天性奇人にて、万事その好むところ常人に異なりしにより、その良沢を教育せしところもまた非常なりしとなり」(岩波文庫版『蘭学事始』14ページ)という。その教えは「人といふ者は、世に廃れんと思ふ芸能は習いおきて末々までも絶えざるやうにし、当時人の捨ててせぬことになりしをばこれをなして、世のために後にその事の残るやうにすべし」(同上)というものであった。玄白は「いかさまその教へに違はず、この良沢といへる男も天然の奇士にてありしなり」(同上)と評価する。良沢は市井に隠れて、蘭学に没頭していたので、世間に奇人としての名を広めることにはならなかったのである。

 蒲生君平も諸国を歴訪して多くの人々と交わり、子平とも交流があったと言われる。特に水戸学の影響を受け、荒廃した歴代天皇陵を調査して、文化5年(1808)に『山陵志』という書物を刊行する。これは幕末の尊王論の先駆けとなった書物である一方で、現代の考古学にも一定の影響を与えている。たとえば前方後円墳というのはこの書物で使われた言葉だそうである。

 「三奇人」はいち早く時代の変化に気付き、来るべき変化を世の中に訴えようとしたが、世間一般の理解を得ることができず、また官憲の弾圧にあって、奇人としか評価されなかった人々である。しかし、今日、「三奇人」の方は歴史の授業の中で雑談の種になる程度には記憶されているが、「三博士」の方はよほどの物知りでないと話題にしない。「寛政の三奇人」の方が「寛政の三博士」よりも知名度が高いということは、大いに留意すべきことではないかと思うのである。 
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