『太平記』(164)

6月25日(日)午前中は雨が降っていたが、午後は曇り空が続く

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から海路東上してきた足利尊氏の軍勢は、陸路を進んできた弟の直義の軍勢と呼応して、兵庫に陣を構えて都の朝廷を守ろうとする新田義貞の軍勢に襲い掛かった。京都から義貞の応援に派遣されていた楠正成は、弟の正氏とともに足利直義の命を狙ったが、大軍に阻まれて成功せず、2人は七生まで朝敵を滅ぼすことを誓って湊川で自害した。生田の森で奮戦した義貞も、衆寡敵せず退却した。

 退却する味方の軍勢を安全に落ち延びさせようと、最後尾で奮戦していたために、敵の中に孤立した義貞を、武蔵の国の武士である小山田太郎高家が身代わりになって救ったという話を前回の最後に書いたが、その際に参考にしようと思って見つからなかった安田元久『武蔵の武士団』が見つかったので、少し補足しておく。小山田氏は、桓武平氏で武蔵の国で最強と言われた秩父武士団を構成する一族であり、その祖小山田有重は、剛勇廉直の鎌倉武士として幕府の創建に貢献した畠山重忠の叔父にあたる。幕府の内紛に巻き込まれて畠山、稲毛など秩父武士団を構成する一門の武士たちが滅ぼされた後も、小山田氏だけはその血脈を伝えていた。現代の町田市下山田町にある曹洞宗の古刹大泉寺は、文明9年(1477)に長尾景春の乱で小山田氏の居館であった小山田城が落城したのちに、この地に移ってきた寺だそうで、本堂の西側の丘の中腹にある3基の宝篋印塔の1基が小山田高家の墓と伝えられているという。〔私が時々その近くに出かけている小机城址が長尾景春の乱と関係があることは以前に書いた。なお、小机城は「続・日本100名城」に選定されたという掲示が出されていた。〕

 楠正成が戦死したという情報は、義貞から早馬で京都に伝えられ、京都中が色を失い、後醍醐天皇は困惑された。正成が討ち死にしたとはいえ、まだ義貞がいるし、何とか敵襲を食い止めてくれるだろうと望みをつないで、敵が急に勢いづいて近づいてくるだろうとは、誰も思っていなかったのだが、宮方の総大将である義貞が、わずかに1,000余騎にも満たない敗残の兵とともに京都へ敗走してきたので、人々が慌てて騒ぐことは一通りではない。男も女も右往左往し、主君も家臣も呆然として地に足がつかない。

 朝廷では新田軍がもし敗北したならば、この年の正月にそうしたように、ふたたび比叡山に朝廷を移すことをかねてから決めていたので、延元元年5月25日(1336、歴史的事実としては27日)に、天皇は3種の神器をまず先にして、またもや比叡山へと行幸される。

 驚くべきか、嘆くべきか。元弘元年(1331)には、鎌倉幕府の圧力を避けて後醍醐天皇は都から出奔され、その年のうちに幕府に捕らえられて、隠岐の島に配流されたが、皇位は朽ちない定めであったので、間もなく北条氏を滅ぼし、公家一統の政治を実現された。こうして昔の律令政治が復活するかと思われたのだが、それからまだ3年もたたないうちに、今度は足利尊氏・直義兄弟が武家の政治の再興を企てて謀叛を起こした。こうして天下は再び内乱に苦しむことになったが、いったん武家方は京都を占領したものの、宮方の反攻に敗北したので、これこそ天皇の徳のなせるところである、もはや謀叛を企て、兵乱を起こすものは出てこないだろうと思っていたのに、足利軍は九州で勢いを盛り返し、半年もたたないうちに2度まで、天皇が都から玉座を移すという事態が起きてしまった。「今は日月も昼夜を照らすことなく、君臣も上下を知らざる世になつて、仏法、王法ともに滅すべき時分にやなりぬらんと、人皆心を迷はせり」(第3分冊、89ページ)と『太平記』の作者は嘆く。

 それでもまだ人々は、正月にいったん都から落ち延びた宮方の軍勢が、天皇のご威光によって敗走した前例を思い浮かべ、同じことがまた起きるのではないかと希望をつなぐのであった。そのため、前回の比叡山行幸の際には態度をはっきりさせなかったけれども、今度こそは比叡山にお供をして、自分の忠義の心を示そうと考えるものも少なくなかった。
 それで、正月の臨幸の際よりも多くの、さまざまな身分の人々がお供に加わり、武士は無論のこと、戦争に従軍した体験のない公家の人々まで、ここで手柄を立てて名を挙げようと、空元気だけは勇ましく見えることであった。
 臨幸に加わった主な人々の名が列挙されている中に、奥州から大軍を率いて上洛していた北畠顕家の名がある。前回、正成ではなく、大軍を動員できるという意味で顕家の方が適任ではなかったか、しかし、すでに顕家は奥州に戻っていたと書いたが、実はまだ京都に残っていたことを知らなかった。だとすれば、なおさら、正成を戦死させたのは作戦ミスとしか言いようがない。
 もう一つ気になる記事は、持明院統系の公家として活躍していた日野資明の名があることである。彼はもちろん、この後すぐに抜け出して、北朝方の公家の中にその名を連ねるのであるが、この時どのような態度をとっていたのかは興味あるところである。〔足利尊氏が京都から敗走する途中で、側近の薬師丸という少年僧におまえは日野中納言(=資明)と面識があるそうだから、そこから光厳院の院宣をもらってきてほしいと言いつける。(第15巻) この巻で、厳島神社に参篭している尊氏のもとに、醍醐寺の高僧である賢俊僧正が光厳院の院宣を持ってくるが、賢俊は資明の弟である。だから、資明は尊氏と連絡を取っているはずで、それが天皇の臨幸の中に加わっているというのはなにがしかの意図があってのことだと推測されるのである。〕

 とにかく、天皇の臨幸の列に加わらなかった人々も、後を追って比叡山や、その麓の坂本に押し寄せたので、公家や武家であふれかえってしまい、宿取りの争い、あるいは食糧の争奪戦など、朝晩やかましいことであったと作者は記している。

 いったん京都から敗走した尊氏・直義兄弟が再び、京都に迫ってくる。後醍醐天皇はまたも都から離れることになる。前回、都を占拠した時に、尊氏は持明院統の皇族と連絡を取ることができなかったが、今回は連絡が取れているというところが違い、それが今後の展開に大きく影響してくる。それがどのようなものかについては、また次回に。 
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