『太平記』(163)

6月18日(日)曇り、昼頃から雨が降り出す

 建武3年(延元元年、1336)4月末に、九州に逃れていた足利尊氏・直義兄弟が大宰府を発って東上、安芸の厳島明神で光厳院の院宣を得ると、備後鞆の浦で軍勢を手分けして、尊氏が海路を、直義が陸路を進んで都を目指した。中国地方での優勢を固めようとしていた新田義貞は直義軍の攻撃を受けて、摂津兵庫まで後退した。劣勢を挽回すべく、後醍醐天皇は楠正成に兵庫下向を命じた。死を覚悟して兵庫へ下る正成は、途中、桜井の宿で嫡子正行に遺訓した。5月25日、足利尊氏の軍勢が海路兵庫につくと、新田方の本間重氏が遠矢を射て、戦闘が開始された。
 尊氏に合流していた細川定禅率いる四国軍は摂津の紺部の浜(現在の神戸市中央区)に上洛を図り、それにつられて新田軍は東へと移動、新田軍が陣を構えていた和田岬に尊氏の率いる九州・中国軍がやすやすと上陸し、湊川に陣を構えていた楠正成は敵中に孤立、陸路から迫ってきた直義軍と戦い、直義を危地に陥らせるなど奮戦したが、尊氏軍が直義軍に援軍を派遣、ついに楠兄弟は七生朝敵を滅ぼすことを誓って湊川で自害した。

 正成戦死を知った新田義貞は、早馬を仕立てて京都にこの旨を報告、京都の朝廷は鎌倉幕府の大軍を退け、倒幕に大きな功績を残した正成が命を落としたことに大いに驚いたが、新田がなんとか敵を食い止めてくれるだろうと頼りに思ったことであった。

 ということで、尊氏、直義の兄弟がそれぞれの軍を合わせて、西から新田義貞の軍勢に戦いを挑む。義貞、義助の兄弟はこの様子を見て、紺部の浜から上陸してきた敵は、旗の紋を見たところ、四国、中国の武士たちと判断される。湊川の方面から攻めてくる軍勢こそ、足利兄弟と思われる。これこそ願うところの敵である」と、脇の浜(神戸市中央区脇浜町の海岸)から取って返し、生田の森を背にして、その率いる4万余騎を3手に分けて、敵を三方から迎撃しようとした。〔楠正成・正氏、新田義貞・脇屋義助、足利尊氏・直義、3組の兄弟がこの戦いに参加しているのが注目される。血は水よりも濃し、一族一門の団結のきずなの基本的な結びつきは兄弟の関係であったのである。戦いの継続とともに、兄弟は他人の始まりという時代が訪れる…〕

 新田軍、足利軍ともに勢いをつけようと、それぞれ一斉に鬨の声を上げる。まず、一番に、新田方からは大館氏明と江田行義が3千余騎を率いて、足利一族の仁木、細川、斯波、渋川の6万余騎の中に駆けこみ、火を散らして戦って、二手に分かれてさっと退却する。
 次に、宮方からは中院中将定平(戦闘に加わっているが、もともと村見源氏の公家である)、新田一族の大井田、里見、鳥山の武士たちが5000余騎を率いて、足利譜代の家臣である高、尊氏・直義兄弟の母親の実家である上杉、尊氏の盟友佐々木道誉、赤松一族の軍勢8万余騎の真ん中に駆け込み、1時間ほど黒煙を立てて戦闘を続けた。
 3番目に、義貞の弟の脇屋義助、宇都宮公綱、菊池武重、伊予の河野一族である土居、得能らの1万余騎の軍勢が、足利直義〔図らずも義貞と尊氏の弟同士の対決となった〕と足利一族である吉良、石塔、畠山、小俣、一色の10万余騎の中に突っ込み、天を響かし、地を動かし、両者入り乱れての乱戦を展開したが、戦死者が多く、両陣ともに退却して、いったん休息の時間をとった。

 この様子を見て、新田義貞は「控えの新しい軍勢は既になくなってしまったが、戦いはまだ決しない。これは大将たる私が自ら出陣すべき場面である」と2万余騎を左右に進め、尊氏の20万余騎の中にかけ入り、戦闘を開始する。いよいよ両軍の首将同士の対決である。一方が宮方の総大将で、新田家の嫡流の武将であり、もう一方は武家方の首将で、足利家の正統の武将である。ということで、名実ともに両軍を代表する存在として相争うべき存在である。ということで両方の軍勢が激突して激しい戦いが展開された。しかし、新田軍は軍勢の数において劣るので、命を捨てて勇敢に戦ったとはいうものの、ついに壊滅状態になり、残る軍勢はわずかに3千余騎、生田の森の東から丹波路を通って、都の方へと敗走する。

 足利方の軍勢は勢いに乗って、敗走する新田軍に襲い掛かる。しかし、総大将である義貞はこれまでの戦いでもそうしてきたように、味方の軍勢を無事に逃がすために、敗走する軍勢の後陣に引き下がって、戻っては戦い戻っては戦いしていた。そうこうするうちに義貞の乗っていた馬が矢を3筋まで受けて、進めなくなったので、乗馬の乗り換えをしようと思って待っていたが、味方の軍勢はこれを知らなかったうえに、義貞から見える味方の兵もその時は遠くにいたので、義貞を馬に乗せようとする人がいないという状態であった。

 これを見た足利方の軍勢は、数百騎の兵が争うように殺到し、義貞を取り囲んで討ち果たそうとするが、義貞は弓を引き絞って、近づいてくる武士たちをめがけて矢を射る。その勢いのすさまじさに圧倒されて、足利方の武士たちは義貞を遠巻きにして矢ふすまを作り、遠矢を射かけるだけであった。その矢が雨のように降りそそぐ中、義貞は源氏の家柄に代々伝わる薄金という鎧を着て、これも源氏に代々伝わる鬼切という(渡辺綱が鬼の腕を着たとされる)名刀を抜いて、鎧をゆすって札(さね)の隙間をなくし、あるいは矢を鎧の左袖で受け止め、あるいは飛んでくる矢を刀で切り捨てて、防いだので、その体には矢を受けて傷つくこともなかった。〔前回の楠正成が11か所の傷を負うていたというのと対照的である。〕

 そこへ、遠くからこの様子を見つけた小山田太郎高家という武蔵小山田(現在の東京都町田市内)の武士が馬を全速力で走らせて駆け付け、馬から飛び降り、自分の馬に大将義貞を急いで乗せ、自分自身は徒立(かちだち)になって、追ってくる敵を防いでいたのだが、大勢の敵に囲まれ、ついに戦死してしまった。その間に、義貞は敗走する自軍に追い付いて、きわめて危険な状態を脱し、しばらくは安堵したのであった。

 『太平記』の作者は尊氏・直義と義貞・義助の軍勢の戦いを例によって過剰な言語を連ねて描写するが、実態としてはどの程度激しい戦闘が展開されたのかは疑問である。新田軍の兵力が急激に減ったのは、自軍の何倍もある足利軍の軍勢を見て恐れをなして逃げ散った武士たちが少なくないからではないかとも思われる。戦闘の様子を見て、どちらにつくかを決めるという武士たちが多いからこそ、自分たちの武勇をもって何とか劣勢を挽回しようと義貞は考え、確かに武勇のほどは発揮したのだが、それ以前に細川定禅の陽動作戦に引っかかって、軍勢を東に移動させ(楠を孤立させてしまっ)たのが大きな敗因であった。そのまま和田岬の陣を動かず、正成と呼応して戦っていれば、あるいは勝機が生まれていたかもしれない。もちろん、一番大きな敗因は両者の軍勢の規模であって、その意味では後醍醐天皇は楠正成ではなく、大軍を動員する力量のある北畠顕家を派遣すべきであった〔といっても、この時点で、顕家は自分の任地である東北地方に戻っていたはずである〕。新田軍主力の勇猛さや団結力はたしかに賞賛に値するのだが、尊氏・直義兄弟に加えて、高師直、上杉憲房、細川和氏、細川定禅、佐々木道誉、赤松円心と軍勢だけでなく、存在感を持つ武将の数でも足利方の方が有利であったことは否定できない。 
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