倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(4)

6月14日(水)曇り(朝のうちは雨が残っていたようである)のち一時晴れ間が広がる。

 中国では589年に北朝の隋が南朝の陳を滅ぼして統一政権を樹立した。北東アジア諸国にとってこれは前例のない変化であった。朝鮮半島北部から中国の一部に版図を有する高句麗は隋と対立・構想を続け、南東部から西海岸へと勢力を拡大していた新羅は高句麗との対立から自国を防衛するために隋に臣従し、西南部の百済は隋と高句麗の対立の中で新羅に攻め込んで漁夫の利をえようとしていた。高句麗は百済だけでなく、かつて戦火を交えた倭国とも同盟を結ぼうとした。倭国は伝統的に百済と友好的で、高句麗とも同盟を結んだが、外交的接近を図ってくる新羅に対しては優越感と敵意とをもち続けていた。高句麗遠征の失敗を主な原因の1つとして隋が滅亡し、それに代わって唐が中国の統一政権となっても、この基本的な構図は変わらなかった。その一方で、倭国は中国の王朝からの冊封を求めず、唐から独立した存在であることを主張し続けていた。
 朝鮮3国では国王あるいは権臣が独裁的な権力を握るという政治的な変化が見られた。北東アジアの激動する政治情勢に対応するには、権力の集中が望ましいという判断がその背景にあったと思われる。遣隋使→遣唐使の派遣を通じて急速に政治改革を進めていた倭国においても、葛城王子→中大兄王子と中臣鎌足が蘇我入鹿と古人大兄王子を滅ぼした「乙巳の変」は権力集中を目指すこの流れに沿った動きであったと考えられる。

 百済は651年に唐に遣使し、当時の皇帝である高宗から新羅との和睦と新羅の城の返還を命じられたが、白雉4年(653)に倭国に使者を派遣した。おそらくは緊迫する対新羅関係に際して、唐よりも倭国・高句麗との同盟に期待する旨の同意に達したのであろう。これ以降、百済は唐への遣使を行っていない。(この間、新羅は唐への急速な追従を強めていて、白雉2年=651に新羅の使いが唐の服を着て筑紫についたので、追い返されているそうである。) 655年、百済は高句麗と連携して再び新羅への攻勢を強め、新羅の北辺を攻撃した。新羅は早速、使節を唐に派遣して救援を請うている。

 「この頃から、『三国史記』百済本紀には、百済王の驕慢や淫荒・耽楽の記事、また滅亡の予兆記事がめだつようになる。中国の正史に倣った王朝末期の様相を呈してきたのである」(109ページ)と倉本さんは記している。書き遅れたが、『三国史記』は朝鮮の三国時代の歴史を高麗の金富軾が1145年に編纂した書物である。三国分立が新羅によって統一され、その新羅が亡びたのちに成立した高麗の時代に、編纂されたということは、対象となった時代から相当後になってまとめられたということで、その信頼性はかなり低いことは容易に推測できる。ただ、後に百済を滅ぼした唐の武将蘇定方が刻ませた碑銘にも百済王の政治の乱れを指摘する内容が記されているというから、全く根拠のない話でもなかったようである。

 655年に唐の高句麗征討が再開され、668年の高句麗滅亡まで続くことになる。百済では、国政運営の乱脈が貴族間の分裂を生み、変化する国際情勢に対する洞察や相手国の情報把握が十分にできなくなっていた。そこで、唐が侵攻してきてもまず高句麗を攻撃するはずで、両者の戦闘のあいだに対応策を求めても間に合うという考えが生まれたものと推測される。
 一方、倭国では白雉4年に中大兄王子ら政権の首脳が難波宮に大王を残して、飛鳥に還っているのはこのような国際情勢も視野に入れてのことではなかったかと考えられる。白雉5年(654)に第3次の遣唐使が派遣されたが、彼らは唐の高宗から新羅救援を命じられたという。
 「659年4月に百済が新羅を攻めると、新羅は唐に援兵を請い、唐は百済攻略を決定した。新羅が外国勢力を半島に引き入れて百済と高句麗を滅ぼし、やがて半島を統一することの意味は、別に問われなければならない。三国統一戦争は三国間の統合戦争であると同時に、唐の三国侵略戦争でもあったのである。」(111ページ)

 新羅は斉明2年(656)以来、倭国に使節を派遣していない。(はっきり敵対関係に入った。) これらの情勢の変化に対応できていない倭国は、斉明5年(659)7月に第4次遣唐使を発遣した。「前年の阿倍比羅夫の北方遠征の成果を得て、蝦夷を唐の天子に見せ、倭国が東辺・北辺の蝦夷を服属させていることを唐に示そうとしたと考えられている」(同上)。倭国の側では気づいていなかったが、翌660年から唐は百済討伐に乗り出し、百済の同盟国である倭国の使節は帰国を禁じられてしまうのである。(すでに述べたように、百済はこのような事態を予測して、唐との外交関係を絶っている。)

 660年3月、唐の高宗は蘇定方を総司令官として、水陸軍13万を率いて百済に進発させた。また新羅の武烈王に5万の兵を率いてこれを応援させた。唐は海上から、新羅は陸上から、それぞれ百済に侵攻し、これを挟撃したのである。動員出来る軍勢の量的な違いに加えて、百済が敵の侵攻に対して適切な防御策を講じなかったために、百済軍は大敗を続け、7月18日に義慈王と太子は降伏し、とらえられた百済の主な人々12807名は唐の長安に送られた。倭国放還が決定していた第4次遣唐使の一行は、彼らが連行されてきたのを目撃したと『日本書紀』に記されている。
 百済滅亡の知らせは、すぐに倭国に伝わったが、それとともに百済遺臣が唐への反乱を起こし、あと一方で王城を奪還できそうだという情報も同時に伝えられた。(自分に都合の良い情報の方を信じたがるのは今に始まったことではない。救援軍を派遣してほしい、百済の遺臣たちが自分たちに都合の悪い情報を伝えるわけがない。) 
 こうして倭国は百済の遺臣たちを救援するという大義名分をもって、新羅および唐の連合軍と戦うことになる。いわゆる白村江の戦であるが、その次第についてはまた次回述べることとした。
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