『太平記』(162)

6月11日(日)曇り

 建武3年(延元元年、1336)、九州から東上してきた足利尊氏の軍船が兵庫沖に姿を見せた。また、陸路からは尊氏の弟である直義の率いる軍勢が押し寄せる。予期していた以上の大軍に来襲を迎えて、新田義貞は軍勢の手分けを行い、弟の脇屋義助を経島に、一族の大館氏明を燈籠堂の南の浜に配置し、自らは和田岬に陣を張って足利軍に対抗しようとした。京都から応援に派遣された楠正成は、期するところがあって湊川の西に自分たちだけの小勢で陣を張った。
 新田方の武士である本間重氏が遠矢を射て、その腕前を示し、両軍の戦闘が開始された。足利方の細川定禅の率いる四国勢が紺部(神戸:生田神社の近く)の浜に上陸しようとしたのを、和田岬付近を固めていた新田軍は阻止しようと東へと移動し、その移動した後に足利尊氏の率いる九州・中国の軍勢が上陸、楠正成は大軍の中に孤立した。

 正成は弟である正氏に向かって次のように述べた。「敵が我々の前後をふさいで、味方とは陣が隔たってしまった。もはや逃げる場所はないと思われる。こうなったら、まず前にいる敵を一散らし追い払って、その後で後ろの敵と戦おう」。正氏は、そのとおりだと賛同し、自分たちの率いる700余騎を縦に整列させて、大軍の中へと懸け入った。〔原文には「七百余騎を前後に立てて」(第3分冊、77ページ)とある。軍勢の大小を考えれば、正成が兵法にかなった魚鱗の陣形をとることは容易に想像できるが、乃至政彦『戦国の陣形』(講談社現代新書)のこの時代には、それほどはっきりした陣形は実際には採用されていなかったという説に従い、このように解釈してみた。もっとも実際には、魚鱗の陣形と考えていいようである。〕

 足利直義の率いる武士たちは、楠の紋である菊水を記した旗に出会ったのを、(功名を立てるよい機会だと)幸運に思ったので、正成の軍勢を取り囲んで打ち負かそうと考えて、思い思いに激しく攻撃したが、正成、正氏はもともと名高い融資であるから、小勢ではあったが、少しもひるむことなく、東西南北に軍勢を移動させて、襲い掛かる敵を追い散らし、強敵に出会ったら、馬を並べて走らせて組討して馬から落とせ、格下の敵だと思ったら、一太刀打ち込んで追い払えと指示し、わき目も降らず、何度も何度も攻撃を懸けた。正成、正氏兄弟がひたすら念頭に置いていたのは、足利直義に近づいて、これと組内をして、その首をとろうということである。直義も大軍を率いる名将ではあるが、楠の武勇には劣るので、正成の率いる700余騎に圧倒されて、須磨の上野まで後退した。〔尊氏が優柔不断な性格であるのに対し、直義は果断であったとされる。しかし、いざ戦場に出ると、尊氏の方が優れた武将ぶりを発揮する。ここが不思議なところである。〕

 直義は、どうしたことであろうか、馬の脚の蹄の上のところを射られて、馬が前足を引きずって軍勢から遅れ始めた。そこへ楠の兵たちが近づいて、今にも討たれてしまいそうな様子であった。あわやというところで、高師直の家来である薬師寺十郎次郎公義が、ただ一騎戻ってきて、馬から飛び降り、二尺五寸(約75センチ)の短い長刀の柄の先端をもち長く差し伸ばして、襲い掛かる敵の馬の鬣の下の左右平らな部分や、馬の胸から鞍にかける紐を切り落とし、突き落とし、7,8騎ほどの敵を落馬させたので、その間に、直義は馬を乗り換えて、はるかに逃げのびてしまった。〔この薬師寺公義は岩波文庫版の脚注によると、歌集を残した歌人だそうで、筆が立つので自分の武勲を記録に残すことができたのであろう。他にも、直義を助けたものの、その功名が埋もれてしまった武士がいたかもしれない。〕

 直義の軍勢が正成に追い立てられて後退していくのを、兄の尊氏は遠方から眺めて、「大将が後退しているのが見えないのか。おのおの方、控えの新しい軍勢を入れ替えて反撃せよ。直義を戦死させてはならない」と命令を下す。これを聞いて、尊氏に従って、上陸してきた武士たちが我も我もと戦闘に赴こうとした。足利一族では吉良、石塔、渋川、荒川、小俣、今川、一色、岩松、仁木、畠山、外様の武将では豊後の大友、長門の厚東、周防の大内、美濃の土岐、播磨の赤松、下総の千葉、下野の小山、常陸の小田・佐竹らの武士たちが、それぞれ手勢の中から精鋭を選んで、7千余騎の軍勢を組織し、湊川の東へと進んで、楠の退路を断とうとした。

 楠兄弟はひるむことなく取って返し、新たに攻め寄せてきた多数の軍勢との戦闘に取り掛かる。対する足利方は、楠軍はすでに戦う力を使い果たした小勢で、新たに入れ替えもせず、ただ勇敢な気力だけで応戦してくるものだ。直接に対決せずに、こちらの軍勢を散開させて、敵を後ろへ突破させずに包囲して、戦力を消耗させようと決めて、正成の率いる軍勢が掛け合わせるとかけ違い、軍勢を開いて包囲した。楠はいよいよ気力を奮い起こして、その限りを尽くして、左に討ってかかり、右に取って返し、まえを破り、後ろを払う。足利方は、むやみに戦おうとしなかったのだが、楠軍は決死の覚悟を決めた小勢なので、足利方の中を駆け抜け、あちこちを走り回ったので、組討で落馬したり、斬り落とされたりしたものも多かった。人も馬も休むことなく、約6時間にわたり戦闘が続いた。その結果として、楠軍の人数は次第に減って、わずかに70余騎ばかりになってしまった。

 ここまで軍勢が減ってしまっても、まだ敵を打ち破って落ちのびることはできたが、楠は京都を出発した時から、死を覚悟していたので、一歩も退却しようとはせず、さらに攻撃と反撃を続け、あちこちで力の続く限り戦い、精も根も尽き果てたので、湊川の北の辺りに民家が並んでいた中に走り入り、腹を切ろうとして、鎧を脱いで自分の体を見ると、切り傷、射傷、11か所もあった。このほか、正氏以下70人余りの武士たちも5か所、10か所と傷を負っていない者はいなかった。

 楠の一族の主だった者たち16人、配下の武士たち50余人、思い思いに並んで、押し肌脱いで念仏を唱え、一度に腹を切った。正成、正氏兄弟も、すでに腹を切ったが、まだ息のあるうちに正成が弟の正氏の顔を見て、「臨終の一念次第で来世での生まれの善し悪しが決まるという。九界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩)の中で、どこをおまえの願いとするか」と問うたのに対し、正氏は、笑って、「七たび生まれ変わっても、同じ人間界に生まれて、最後には朝敵を自分の手で滅ぼしたいと思います」といったので、正成は会心の笑みを浮かべて、「罪業は肌身にしみこんでいる。煩悩も時と場合による。来世は最後の一念で決まる。おまえは最もうれしいことを言ってくれた。さあ、つかの間の一生を終えて、すぐさま人間界に帰ってこの念願を遂げよう」と約束して、兄妹手人手をとって、刺し違えて並んで死んだのであった。

 九州の武士である菊池武朝(「菊池系図」によると武吉)は兄の使いで、この合戦の様子を見に来たのであるが、正成が腹を切る場面に遭遇して、この様子を見捨てて、おめおめとは帰れないと、自分の召し使っている下人に、急いで帰って兄にこの様子を報告しなさいと言って、その家に火をつけて、同じく自害をして炎の中に身を投じた。〔赤の他人に自分の家に押し入られて自殺され、さらに放火された家の持ち主が実に気の毒である。〕

 そもそも元弘のころからずっと、後醍醐天皇に信頼され、忠義を尽くし、功績を挙げた人々は少なくない。しかし、この乱が始まって以来、仁を知らない者は朝廷の恩を捨てて敵に属し、臆病な者は、一時的に死を逃れようとして降参してかえって刑罰を受ける。知恵のないものは、時世の変化を理解できずに、自分の進退に迷う中にあって、智仁勇の三徳を守って、大義の正道に殉じ、朝廷に武勲を立てることにおいて、古今を通じて正成に勝るものはいなかった。とりわけ、国家の興廃の機運を前もって察し、逃れられないところを逃れずに、兄弟ともに戦死したことは、帝の威光が武の徳を失う端緒ではなかろうかと、心配しない人はいなかった。

 京都を出発する以前に、正成が後醍醐天皇に申し上げていたように、わずかばかりの援軍で尊氏・直義の大軍に対抗できるわけがないのである。死を覚悟して戦場に赴いた正成は勇敢に戦って死んだ。『太平記』の作者は正成の人物像を賛美する一方で、その死が宮方にとって大きな打撃であったと論評している。戦闘に敗北したこと以上に、正成の死の意味は大きいのである。本来の大将である義貞の戦いぶりが、この後に語られることも、正成の存在の大きさを示すものではないかと思われる。
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