倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(3)

6月7日(水)曇り

 この書物は対外戦争をキーワードとして、倭国→日本の北東アジア諸国との関係をとらえなおすことを意図するものである。倭国→日本は、ほとんど対外戦争を経験していないし、対外戦争の経験が蓄積されなかった結果として、戦争は下手である。にもかかわらず、古代における対外関係のある部分が対アジア諸国へのあまり根拠のない優越感や敵視に影響を与えてきたことも否定できないという。今回は、この書物の最も重要な部分である白村江の戦いを中心に取り上げる第3章「白村江の戦 対唐・新羅戦争 7世紀」の内容を検討する。その前に、第2章までの内容をまとめておく。

 大和盆地南東部に統一政権(倭王権)が誕生したのは3世紀中葉から後半のことであり、まだ国内で鉄が生産できなかったので、朝鮮半島南部の加耶地方の鉄をめぐって、倭国は朝鮮諸国と深くかかわることになる。倭王権の対外関係を推定するため資料として石上神宮に伝えられてきた七支刀と、中国吉林省に残っている高句麗好太王碑がある。
 当時朝鮮半島には北に高句麗、南東に新羅、南西に百済の三国が鼎立していたが、最南部の加耶は小国に分裂し、統一国家を形成しなかった。4世紀後半に百済は倭国に修好を求め、七支刀を贈り、倭国の支援を得て高句麗と対抗しようとした。百済支援のために海を渡った倭軍に対し、高句麗の広開土王(好太王)が圧勝したことが好太王碑に記録されている。最終的に惨敗したにもかかわらず、その前に一時的に百済・新羅を「臣従」させた記憶が倭国の支配層の中には残った。5世紀の「倭の五王」時代に倭国の王たちは、中国南朝への朝貢を行い、冊封を受けたが、その中で倭国王の地位とともに、朝鮮半島への軍事指揮権を部分的にせよ認められた。
 6世紀になるとそれまで高句麗に従属していた新羅の勢力が強まり、半島の西海岸に進出、百済は南方に追いやられた。新羅と百済は加耶に侵攻し、自国の支配地域とした。倭国は加耶がかつて倭国に臣従・朝貢した歴史があるとして、新羅に対し「任那の調」を要求し続けた。

第3章 白村江の戦 対唐・新羅戦争 7世紀
 1 激動の北東アジア情勢
 南北朝に分れていた中国では、581年に北朝の隋が起こり、589年には南朝の陳を滅ぼして、統一王朝を現出させ、周辺諸国への圧迫を強めた。特に、百済からの請願を承けて598年以降4次にわたって高句麗に大軍を派遣した。この時期、江南の杭州から涿郡(現在の北京市付近)にまで達する総延長1800キロに及ぶ大運河が開削されたが、これは対高句麗戦への兵站を目的としたものであった。これまで中国の統一政権との交渉の経験を持たない倭国にとって隋の出現は衝撃をもって受け止められた。
 高句麗は朝鮮半島北部だけでなく、中国本土にも領土(中国国内の領土の方が現在の北朝鮮に属する部分よりも広かったと言われる)をもつ大国で、隋の征討を受けたが、これを撃退した。百済は隋の高句麗遠征に依存しながら、それに乗じて新羅を攻撃し、自国の利益を確保しようとした。新羅は一貫して隋に臣従することで高句麗・百済の構成を抑えようとした。
 隋が亡びて唐になってもこの基本的な立場は変わらず、高句麗は隋や新羅と対抗しながら、東突厥や百済、それに、かつての敵国であった倭国とも連携した。百済と同盟関係を続けていた倭国は新しい事態への対応を求められることになる。

 2 新羅との角逐と遣隋使
 崇峻4年(591)に崇峻天皇は群臣に「任那復興」を発議し、11月に新羅遠征軍を編成した。これは中央氏族の軍事力を主体とする大規模な編成の軍であったが、実際に戦うことよりも九州に大軍が集結することで新羅に対して外交的圧力をかけるのが目的であったと考えられる。遠征軍は推古3年(595)まで九州に駐留し続けるが、これは新羅をはじめとする国際情勢を観測するためであったと考えられる。
 『日本書紀』にはこの時期、新羅への派兵の記事が載せられているが、信憑性は薄い。国際情勢の変化を踏まえ、倭国の指導層は遣隋使を派遣して新たな外交関係の構築に取り組もうとした。ここで注目されるのは、倭国が隋に朝貢する形をとりながらも、冊封体制から独立した君主を頂くことを承認させようとしていたことである。(卑弥呼の親魏倭王や、倭の五王など、倭の地方的あるいは統一的君主は、その地位を中国の皇帝から認めてもらおうとしていたのに対し、今回は、認めてもらわなくても、こちらは倭国をちゃんと支配しているのだという立場に立っているということである。) 本書の表現によると、「倭国の支配者層は、冊封体制から独立した君主を頂くことを隋から認められることによって、すでに冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を主張し、「東夷の小帝国」にもつながる中華思想の構築を目指したのである(冊封を受けると百済や新羅よりも低い官品に叙される可能性が高く、朝鮮諸国に対する優位性を主張できなかったためでもあろう)。」(97ページ)ということになる。

 隋の文帝の開皇20年(600)に派遣された遣隋使については、『隋書』には記載されているが、『日本書紀』には記されていない。文帝から風俗を問われて使者が答えた内容があまりにも原始的で相手にされなかった様子である。小野妹子が派遣された第二次遣隋使は、その国書に、倭国の大王のことを「天子」と称していたことによって、煬帝の怒りを買った。「その「無礼」な「蛮夷」の使節の帰国に際して、煬帝が裴世清を宣諭使として遣わしたのは、交戦中の高句麗と「大国」倭国が結びつくのを恐れたためであろう」(99ページ)と倉本さんは推測する。これは倭国が新羅や百済よりも上位にあるという倭国側の宣伝が一定程度奏功したことと、倭国の地理的な条件が中国側に誤って認識されていたことのためであるという。
 その後も推古17年(608)に第3次、推古22年(614)には第4次の遣隋使が派遣され、第3次には留学生・学問僧が従った。彼らは隋の滅亡と唐の成立という易姓革命を体験して帰国し、隋唐帝国の先進統治技術を倭国の指導者に教授するとともに、後に「大化改新」の理論的指導者となった。
 『日本書紀』には推古18年(610)と推古19年(611)に、「新羅」と「任那」が使者を倭国に派遣し、「朝貢」してきたと記されている。おそらく、「新羅の調」「任那の調」も貢上されたものと著者は推測している。高句麗の圧迫の中で、隋に高句麗征討を要請している新羅としては、倭国に対しても下手に出ての交渉を試みたのだろうが、新羅が倭国の服属国であるという認識を支配層にますます植え付けるものとなった。
〔「推古天皇」時代の日本の政治体制と政治の動きについては、『日本書紀』の記述にあまり信頼がおけず、かといって中国の史料をうのみにするのも躊躇されるということで、学者によってかなり意見が違う。ここは、倉本さんはこのように認識しているということで読み進むのが賢明であろう。]

 3 唐帝国の成立と「内乱の周期」
 隋は4次にわたる高句麗征討の失敗によって滅亡し、618年に唐が興った。唐は628年に中国を統一し、周辺諸国を圧迫した。朝鮮諸国は相変わらず抗争を続けていたが、新羅は唐に依存することによって危機を乗り切ろうとした。これに対し高句麗や百済は一応は唐に謝罪の使者を派遣したが、引き続き新羅への侵攻を続けた。特に高句麗は唐の侵攻に備える長城を築いたりして、敵対心を隠そうとしなかった。
 倭国は舒明2年(630)に初めての遣唐使を派遣し、舒明4(632)年に唐使高表仁や新羅の送使とともに帰国する。『日本書紀』の記述は簡略で、中国側の史料と合わせて、倭国が唐に冊封を求めず、また新羅や百済に対する優位を主張したために唐との間で外交紛争が起きていたことを推測させる。その一方で、隋・唐から帰国した留学生・学問僧の献策によって倭国はその国家体制の整備を急速に進めていた。

 今回は第3章全体を紹介・論評するつもりだったが、章全体の3分の1ぐらいのところまでしかたどり着かなかった。これから朝鮮の3国と倭国ではそれぞれ政治体制の変動が起き、さらに百済の滅亡という事態に至る。隋→唐と直接的な接触機会が多い朝鮮3国と遠く離れた倭国とでは対外意識、特に外国における変化に対する対応と、力関係の認識に大きな違いが生まれることが予測できる。今回読んだ個所では、隋の煬帝による大運河の開削が対高句麗戦の兵站を目的とするものだったというのが注目される。それでも、隋の対高句麗戦は結局失敗したのであるから、戦争の予測を立てることは難しいのである。とはいえ、大運河は、他の目的にも役立ったのである。 

 
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