ジョン・スチュアート・ミル『自由論』の周辺(3)

6月6日(火)曇り

(5月18日、19日に掲載した記事に続く)
 市民的、あるいは社会的自由の問題は、社会が個人に対してどのように、またどこまで干渉しうるかという問題に言い換えられるとミルは考えている。政治の主導権が人民に移った社会においては、人民の多数派が政府を形成することになる。では、多数派は少数派の思考や行為をどこまで規制できるのか。この問題について、ミルは、多数派と言えども、自分たちに直接的に危害が及ぶ場合に正当防衛権を行使できるだけである、問題が個人に属する限り、その結果がどのように予測されようと個人の自由は尊重されるべきであるという。そこから彼は、思想および言論の自由、個性の尊重、そして個人を支配する社会の権威の限界について論じてきた。さらに第5章では、これまでの議論の例証として自由の原則の応用について論じている。

 当初の予定では、第5章の中での<教育の自由>に関連する箇所について取り上げようと思った(5月18日に研究会で発表した際にはそうしている)、その前に展開されている議論についても省略せずに見ていくことにしたい。

 ミルは自分の議論が2つの格率に基づいて構成されており、この両者の意味と限界とがそれらの応用を通じて明らかになる、あるいは両者の間の平衡を保つのに役立つと述べる。
 格率の第一は、個人は彼の行為が彼自身の何者の利害とも無関係である限りは、社会に対して責任を負っていないということである。第二は、他人の利益を害する行為については、個人は責任があり、また社会が、その防衛のために社会的刑罰または法律的刑罰を必要とする意見である場合には、個人はそのどちらかに服さなければならないということである。

 他人の利益を害する行為に対して社会が干渉を加え、これを処罰することがあるといっても、社会の干渉は常に是認されるわけではないとミルは言う。自由な市場経済においては、競争が行われ、その結果として勝者と敗者が生まれる。勝者は敗者の利益を害したわけであるが、勝敗が人類全体の利益に合致するものである限り、社会が敗者を支持して競争結果を覆そうとすべきではない。干渉が正当なものとなるのは、詐欺・違約・暴力などの不正行為が競争の結果を左右した場合に限られる。
 さらにまた商業の場合、生産者と販売者に完全な自由を与えることが、品質がよく安価な商品の流通の条件であるともいう。混ぜ物をして商品の品質を落としたり、危険な仕事に労働者を従事させたりするということは、むしろこれらを統制することの方が社会全体の利益が大きいのであるから、自由の議論の対象外となるともいう。

 次に問題となるのは、犯罪や災害を予防するために、自由を侵害することはどの程度まで正当でありうるのかということである。ミルはここで毒薬の販売を例として取り上げているが、現在のアメリカで問題になっている銃砲の販売・所持を思い出してもよいかもしれない。毒薬は使い方によっては社会の害悪を取り除くのに役立つので、全面的に禁止することはできない。そこで、ベンサムの言う<予定的証拠>(preappointed evidence)を用意することが必要となる。これは物品の売買についての詳しい記録を残しておくことによって可能になるという。(今の日本では、毒薬ではない一般の処方薬についても薬局が記録を残しているし、患者の側でも薬手帳を持つことが勧められている。しかし、どうもそれだけでは十分ではなさそうである。)
 
 社会が事前の予防策を講じることで犯罪や災害を防止しようとすることは正当であると(ただし、すでにみたように防止手段にはかなり厳しい条件を付けている)論じ、さらに他人の迷惑にならない限り、何をしてもいいかという議論について、何をしてもいいということにはならないと答える。大酒を飲んで他人に迷惑をかけた人間を処罰するだけでなく、大酒を飲んでばかりいる人間をアルコール中毒患者の収容施設に入れることも正しい措置だという。ある人間が怠惰の結果貧しく暮らしているのは、放置しておいてよいが、その結果として扶養すべき自分の子どもを放置しているというような場合には、強制労働を課しても構わないと論じる。自分の子どもと言えども、他人であるから、放置は他人に危害を加えることであるというのである。

 次に直接には行為者自身にとってのみ有害であって、従って法律によって禁止すべきではないが、しかしそれが公然となされるならば良俗を害することになるという種類の行為がある。公序良俗を害するということになると他人に対する犯罪と見なして社会はこれを禁止できる。不倫は黙認されるが、公然たる売春あっせんは処罰の対象となる。個人個人が賭けをすることは大目に見られるべきであるが、賭博場の経営は自由に放任されてはならないものである。このあたり、<最大多数の最大幸福>という功利主義的な原理で議論が貫かれている。

 <教育の自由>について論じるまで、まだ時間がかかりそうである。社会の組織が複雑になり、個人個人の利害が複雑に影響しあい相互に依存しあう社会にあっては、ミルの議論の有効性はかなり限られたものとなるだろうが、彼の古典的な自由主義について知っておくことは、現代の「新自由主義」について理解するためにも必要ではないかと思われる。
 賭博で思い出したのは、英国にはbookmakerという看板を掲げた店舗があり、競馬などの賭けを引き受けて配当金を支払う業者であるが、初めて見た時、何のことかわからず、中に入りかけてやっと気づいたことがある。ホガース(William Hogarth, 1697-1764)が版画「ジン横丁」で描いたような飲酒の極端な弊害は、ミルの時代にはかなり改善されていたように思うが、それでも20世紀に入っても、ロンドンの街を歩いていると、アルコール中毒と思しき老人をよく見かけたのを思い出す。
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ミル

 ミルは読んだことがありませんでした。今回読ませていただいて、「自由」に関する考察が論理的で説得力を持っていることに驚きました。
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