『太平記』(161)

6月4日(日)晴れ

 建武3年(延元元年、1336)5月25日、九州から東上してきた足利尊氏の水軍が兵庫沖に姿を見せた。また陸路からは尊氏の弟である直義の率いる大軍が押し寄せてきた。予期していた以上の大軍の来襲を迎えて、宮方の総大将である新田義貞は弟の脇屋義助を経島に、大館氏明を燈籠堂の南の浜に配置し、自らは和田岬に陣を構えて敵の来襲に備えた。応援に派遣された楠正成は自分たちだけで湊川の西の宿に陣を張った。
 戦闘開始に先立ち、新田方の武士である本間孫四郎重氏が沖合で魚をとらえていたミサゴを射て、その腕前を足利方に見せつけ、驚いた尊氏は、名乗るようにというが、本間は名乗るほどのことはないと、強弓を引いて遠矢を放って答えた。

 『太平記』の作者は、本間の矢が5,6町を射渡したと書いているが、これは誇張であろう。尊氏がこの矢を取り寄せてみると、「相模の国の住人、本間孫四郎重氏」と小刀の先で矢柄に書き記されていた。周囲の武士たちもこの矢を手にして、ああ恐ろしい、運が悪ければこの矢に当たって死なないとも限らない。この船の中の武士たちを狙っていて来るかもしれないと、早くも肝を冷やしている。
 本間は扇を掲げて、沖の方に手招きをして、合戦が始まろうとしている時なので、矢の1本でも惜しいと思う、その矢をこちらに射返してほしいと挑発する。尊氏はこれを聞いて、味方にはこの矢を射返すだけの腕前をもったものが誰かいるだろうか。これほどの大軍勢ということだから、東国の40余の武士団、九州の30余の武士団、そのほか、中国、四国、北国の武士たち、ほぼ余すことなくこの中にはいるはずだ。その中にはこの矢を射るほどのものが、射ないわけがないだろう。誰か射返して見せよという。しかし、皆固唾を吞んで声も立てない。
 尊氏の執事(家老)である高師直がかしこまって申し上げるには、本間が射かけてきた遠矢を同じ矢の狙い所に射返すことのできるものは、東国の兵のなかにはまだいるだろうと思いますが、佐々木筑前守信胤は西国一の弓を強く引く武士です。彼をお召しになって、仰せつけられるのがよかろうと思います。尊氏もうなずいて、尊氏の隣の船に乗っていた佐々木信胤を傍に呼ぶ。信胤は宇多源氏で備前の佐々木一族の武士である。(岩波文庫版の巻末の系図によると、『平家物語』に登場する佐々木兄弟の中の三郎盛綱の子孫ということである。)

 信胤は、召しに従って尊氏の船にやってくる。将軍は、信胤を近くに呼び寄せて、本間が射かけてきた矢を渡し、この矢を射返すことのできる武士がなかなか見つからない。射返してほしいと言ったのだが、信胤はかしこまって、自分にはできないということで採算辞退した。それでもたっての依頼であったので、ついに辞退することができず、自分の船に戻って、緋縅の鎧に鍬形を打った兜の緒をしめ、銀のつく(つがえた矢を固定する折れ釘状の金具)をつけた繫藤の強弓を、帆柱に当ててきりきりと押し張り、本間が射かけてきた矢をとり添えて、船の舳先に立ち、弓の弦を口につけて湿らせた様子は、いよいよ矢を射返すものと見えた。

 宮方に対して、足利方の武芸の腕前が劣るものではないことを示す、面目のかかった場面だが、よせばいいのにでしゃばり出てきた連中がいる。小舟を佐々木が弓をいよいよ射ようとしていた船の直前に漕ぎだして、讃岐勢の中から申し上げる。まず、この矢一つ受けて、弓の勢いのほどをご覧あれと声高に叫び、それと同時に鏑矢を1本射だした。佐々木もしばらくは弓を引かずに、この様子を見ていた。敵も味方も「あわや」と見守っていると、鎧の胴の最上部の板である胸板に弓の弦を打ったのであろうか、もともと力の弱い射手であったのであろうか、矢はひょろひょろと飛んで、敵の2町ほど前までも届かず、途中で勢いを失って海上に落ち、波の上に浮かび上がった。本間の後ろに控えていた新田勢の2万余騎は口々に「あ射たり、射たり」と本間がミサゴを射た時と同じことを繰り返して嘲笑った(本間に対しては賞賛の言葉であったのが、この讃岐の武士に対しては侮蔑の言葉であった)。この嘲笑がしばらく続いていたので、すっかり緊張感がなくなってしまい、これではなまじいても面白くない、取りやめよということになって、佐々木が遠矢を射返すことは中止された。

 このため、でしゃばり出た讃岐の武士は、味方の面目を失わせ、敵味方に笑われ憎まれたので、その恥をすすごうと思ったのであろうか、小舟一艘に200人ほどが乗り込み(小舟に200人も乗り込めるのか疑問である)、経島へ舟をこぎ寄せて、同時に磯へ飛び降りて、敵の真ん中に討ってかかった。これを迎えた脇屋義助の兵500騎が、これを包囲して、弓を持つ左手側と、馬の手綱をもつ右手側の両方から、近づいていき、手綱を回して囲んだ足利方の武士たちを射る。200余人の兵たちは、心は武勇にはやっていても、射ても少なく、しかも脇屋の兵は騎兵中心なのに対し、歩兵ばかりなので、騎兵の馬の蹄に追い散らされて戦いにもならず、結局全滅してしまった。彼らが乗ってきた船は乗る者もいなくなって、波間を漂うのであった。

 足利方の中の四国勢の大将である細川定禅はこの様子を見ていたが、後から続く兵がいなければ、多くの味方が撃たれてしまう。いまこそ戦う時だ。上陸するのに都合のよさそうなところに船をつけて、馬を追い下し、追い下し、上陸せよと命令を下す。そこで、大船700艘に乗っていた四国の兵たちが紺部の浜(摂津国八部郡神戸郷、現在の神戸市中央区の生田神社近くの浜)に上陸する。それよりも西の兵庫の経島付近の3か所に陣を構えていた宮方の5万余騎は、船に乗っている敵を上陸させまいと、船の動きを追いながら、上陸を妨げようと渚を東へ進み、あたかも船に乗った軍勢が陸上の軍勢を追い散らしているような様子に見えた。

 海上の四国軍と陸上の新田軍とがお互いに上陸地点をさぐりあいながら、渚伝いに駆け引きをしているうちに、東へと移動した新田軍と、ずっと動いていない楠正成の陣営との距離が開いてしまい、そのうえ、もともと新田軍が陣を構えていた兵庫の経島の船着き場は空になってしまった。そこで、九州、中国からやってきた兵船6千余艘が、和田岬に漕ぎ寄せて、同時に上陸したのであった。

 岩波文庫版の第2分冊の解説で兵藤裕已が述べているように、本間重氏が弓の腕前を見せる場面は『平家物語』の屋島の合戦の際の「那須与一」(巻11)ふう、さらに本間が自分の名を彫り付けた矢を射て、それを射返すように足利方に申し入れるのは、同じく壇ノ浦の戦いに先立つ和田義盛、仁井親清の「遠矢」(巻11)の逸話を踏まえているのだが、『平家』に比べて、『太平記』に早野富んだ距離の誇張がみられるという。
 しかもその後の足利方の対応は、すでにみたとおりだが、「『平家物語』の「那須与一」にほとんどそのまま依拠して、しかしいかにも『太平記』的な世界につくりかえている」(第2分冊、542ページ)という。那須与一が海上の的を射るのは、源氏の武運がかかった大事であるが、本間と佐々木の対決は、個人的な技量の優劣の問題でしかないと兵藤さんは言う。実際に、この後の事態の推移を見ていくと、本間は足利方に降参するし、佐々木は宮方に寝返る。『平家』の作者が念頭に抱いていた大きな歴史の動きのようなものは『太平記』の作者にはそれを信じたくても、見えないというのが本当の所であろう。

 すでに何度も登場している足利方の細川定禅の率いる四国軍が兵庫の東の方に上陸地点を求め、それにつられて新田軍が移動し、足利方の九州・中国軍の上陸を許してしまっただけでなく、楠正成を孤立させてしまう。源平の一の谷の合戦の場合、平家は福原にしっかりとした城砦を構えていたから、源氏は範頼軍と義経軍が東西から攻撃する形をとり、さらに義経はその中から精鋭を選りすぐって、北の方から奇襲をかけて攻略を図った。今回も、細川が東の方に上陸地点を探しているのは、新田軍を東西から挟撃しようという意図があったと思われる。東へ移動してきた新田軍と対決するのは細川定禅の率いる四国勢、また西からは足利尊氏の率いる九州・中国の兵が新田軍を追撃する、孤立している楠正成の軍勢は陸路を東上してきた足利直義の大軍と激突することになるということで、次回はいよいよ本格的な戦闘場面となる。 
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