倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(2)

5月30日(火)晴れ

 長い歴史の中で日本はほとんど対外戦争を経験してこなかった。倭国→日本の歴史の中で対外戦争の経験は蓄積されず、その結果として、戦争のやり方に習熟する機会もなく、概して戦略的にも戦術的にも戦争は下手である。
 しかしながら、近代日本のアジア侵略は、古代以来の倭国や日本の対外関係の記憶から作り出されてきた帝国観念、そして対朝鮮観と敵国視の結果であったことも否定できない。そこで、「倭王権の成立以来の古代における朝鮮諸国との関わり方、そして中国や朝鮮諸国の日本(および倭国)とのかかわり方こそ、後世の対アジア関係に大きな影響を与えたことを、我々は考え直す必要があるのである」(11ページ)。対外戦争をキーワードとして、倭国→日本と北東アジア諸国との関係を考え直すのがこの書物の狙いである。

第1章 高句麗好太王との戦い 4~5世紀
1 北東アジア世界と朝鮮三国
 3世紀後半に、大和盆地では全国的性格をもつ初期倭王権が成立した。
 北東アジアで最初に政治的成長を遂げたのは、北方のツングース系民族である貊族を主体とする高句麗であった。現在の中国東北地方の一部から朝鮮半島北部を支配し、中国の北朝の前燕と対立したり、服属したりしていたが、その勢力が衰えると、西南の百済との抗争に注力するようになった。
 3世紀末から朝鮮半島西部の政治的統合が進み、346年に百済が馬韓を統一した。4世紀後半の近証拠王の時代に大きく勢力を強め、高句麗との抗争を続けた。高句麗に対抗するため、372年に中国南朝の東晋に朝貢して冊封を受け、一方で加耶諸国と結び、さらに倭国に接近した。
 356年には新羅が朝鮮半島南東部の辰韓を統一した。農業などの生産性が低く、成長が遅れ、また中国とも直接に交流できなかったため、高句麗に従属せざるをえなかった。
 朝鮮半島南部の弁韓(弁辰)は統一されないまま、加耶諸国として小国が分立していた。小盆地がそれぞれ独立した地形を形成しているうえに、鉄資源に恵まれていたためにこの状態を維持することができたのである。これら諸国の中心的立場に立ったのは、任那=金官国=大加耶であった。倭国にとっては対半島交渉の中継地であった。

2 百済からの救援要請
 高句麗と百済が抗争を続けるという半島情勢の中、倭王権は加耶諸国の鉄資源を確保するため、百済からの要請に応じて、朝鮮半島に対して軍事介入を行った。高句麗の侵攻に苦しむ百済は倭国と同盟を結ぶことによって、この危機を乗り切ろうとした。奈良県の石上神宮に伝わる七支刀は、倭国に軍事援助を求めるためのしるしであったと考えられる。

3 高句麗との戦い
 4世紀の後半に入っても、高句麗と百済のあいだには一進一退の攻防が繰り広げられた。このため百済は倭国に援助を養成した。中国吉林省集安市に残る好太王碑の碑文からは、391年以来、両者は共同の軍事行動をとって、新羅に攻め入り、400年には新羅・加耶戦線で、404年には百済北部の帯方界戦線で高句麗と戦って大敗したことが推定できる。歩兵中心の倭国軍に対し、高句麗軍は組織的な騎兵を擁しており、両者の戦力差が勝敗を分けたと考えられる。
 この戦いを通じて、倭国が一時的に加耶、百済、新羅を「臣民」としたことで、朝鮮諸国への支配意識が芽生え、さらに高句麗・新羅への敵意と、百済への同盟意識が根付くことになる。

4 倭の五王の要求
 倭の五王たちは中国の南朝の東晋→宋(→南斉→梁)に朝貢し、冊封を受けた(我が国の全国政権としては類例のないことである)。その中で王たちは朝鮮諸国への軍事指揮権を要求し、その一部分は認められたのであった。そのことは、後世のわが国の朝鮮半島支配の根拠として利用されることになった。(以上前回まで)

第2章 「任那」をめぐる争い 6~7世紀
1 百済の加耶進出
 501年に即位した百済の武寧王は高句麗と連戦して連勝し、一応の安定を見た。
 一方、倭国は武(≒雄略)の死後、王権は動揺を続け、空位期間があったかもしれないと考えられている。その後、継体が即位するが、倭王権の対朝鮮関係の行き詰まりを打開するために迎えられたとする説もあるそうである。
  高句麗戦線に一定の戦果を得た百済は、半島南部の加耶諸国へと勢力を広げようとした。そして高句麗の攻勢に対抗するために、倭国の協力を求めた。ここで『日本書紀』には倭国に属する南西部加耶の地を百済に割譲したという記事が出ているが、倭国が百済の方策を支持するという基本的な立場を示したものと理解すべきではないかと推定されている。これらの地域は、いずれも前方後円墳が存在し、倭系官人が移住していた地と考えられているという。この進出によって、加耶諸国による大加耶連盟との関係は悪化した。
 百済は中国南朝の梁に朝貢を続けていたが、同時に倭国とも積極的な外交を行っていた。その一環としておそらく政治顧問的な役割を果たしていた 南朝出身の五経博士を日本に送り込んでいる。これらが倭国の国政の整備に果たした役割は、小さくないと倉本さんは論じている。

2 新羅の加耶侵攻
 6世紀に入ると新羅が急速に国家体制を固めた。この成長の背景には鉄生産の確保があるとみられる。高句麗への従属から脱した新羅は、百済やかやとも連携して、半島における覇権を目指すようになっていた。一方、百済との関係が決裂した加耶諸国の大加耶連盟は、新羅との連携を模索し始めた。しかしその新羅は百済と修好を結んでおり、加耶は両方を敵に回すことになり、倭国との関係を強めるほかに豊作がなくなった。
 倭国は携帯21年(527?)に近江毛野の率いる対新羅軍を派遣して、加耶を支援しようとしたが、新羅と結んでいた北九州の豪族である筑紫磐井が軍の渡海を遮るという行動に出た。磐井の乱である。磐井が倒された後の継体23年(529)に毛野は渡海するが、十分な戦果を挙げることはできなかった。このため、かえって、今度は百済が加耶諸国西部へ侵攻するきっかけとなった。
 新羅の加耶攻撃は続き、倭国にとっての重要な同盟者であった任那(金官)が新羅に降伏し、王族たちは大変な厚遇を受ける。他の加耶諸国も同じようにして新羅の影響力のもとにおかれるようになる。
 百済の聖明王は加耶の新羅に滅ぼされた地域の回復を目指す会議を開いたと『日本書紀』は記し、この会議に「任那の日本府の吉備臣」が参加していたことをもって、倭国の「任那」支配の証拠とする見方もあったが、実際には加耶地方の安羅が新羅に内応するのを止めようとする意図の会議であり、結局のところ意義に乏しいものであったと著者は論じている。

 この頃、百済は高句麗戦線で苦境に立っており、新羅に救援を要請して、ようやく撃退したほどである。逆に百済は552年にかつて百済の首都であった漢城を占領し、念願の半島西海岸への進出を果たした。これで中国との直接的な交渉を行えることとなったのである。『日本書紀』には欽明13年(552?)に百済の聖明王が倭国に仏教を伝えたと記されているが、この年次の信憑性は薄いという。しかし、苦境の中、倭国の軍事協力を必要とした百済の王が倭国に仏教の文物を贈ったことは十分に考えられることであるとも論じている。倭国が百済への救援軍を送ろうとしているうちに、百済は新羅領内に侵攻し、新羅の待ち伏せ攻撃に会って聖明王は敗死してしまう。
 新羅の加耶攻撃は続いて、562年に大加耶を中心とする加耶諸国は、新羅に滅ぼされる。これで朝鮮半島南部における倭国の拠点は完全に失われ、加耶諸国は百済と新羅によって分割され、半島は高句麗を含む三国時代を迎えた。すでに述べたように、大加耶には倭人が多く住んで、半島における倭国の拠点となっていたのであるが、それは大加耶が日本の属領であったというのとは別のことであるが、後世になると、属領であったという理解が広がっていくのである。

3 「任那の調」の要求
 大加耶の滅亡以後、加耶との特別な関係を復活させる「任那復興」策が、倭国にとって最重要の政治課題となった。そこで、百済および新羅に対し、服属小国が服属儀礼の際に貢進する財物である「調(みつき)」の貢進が求められた。さらに新羅に対しては、「任那の調」の貢進も併せて求められたのである。
 「問題なのは、たとえ外交儀礼の場においてのことであっても、新羅が「任那の調」という名目の物品を倭国に送り、倭国がこれを「新羅が肩代わりりした任那からの調(貢納物)」と認識したという事実である。
 新羅にしてみれば、緊迫する国際情勢を有利に持っていくために、倭国に多少の物品を送っても構わないとでも思っていたのであろうが、倭国側から見れば、それは旧加耶諸国が倭国に貢納品を納めるという「伝統」と認識したことであろう。そして、百済のみならず、新羅からも「調」が貢納されるという誤った国際感覚を醸成させてしまったのである。その終着点として作られたのが、神功皇后の「三韓征伐」説話となる。」(85ページ) 〔「三韓」とは、馬韓(→百済)、辰韓(→新羅)、弁韓(弁辰→加耶)を言い、「三国」(=高句麗、百済、新羅)とは別なのだが、このあたりが混同されっぱなしである。〕 
 「任那の調」は単なる外交交渉上のエピソードで済まない問題であったと著者は論じている。

 今回は2回原稿が消え、さらに原稿の加筆が保存されずという踏んだり蹴ったりの仕儀で、当初の予定では2章と3章を取り上げるつもりだったのが、2章だけで終わることになった。高校の歴史で学んだこととはかなり違った内容が多いが、そのかなりの部分が同じ資料をいかに読み解くかという問題による違いではないかということについて深刻に考えさせられた。
 最近、角川ソフィア文庫から田中史生『越境の古代史』という書物が出て、こちらは文化交流や通商に焦点を当てているとは言うものの、この『戦争の日本古代史』と重なる内容は少なくない。倉本さんの方は著書の中で田中さんの研究に言及しているが、田中さんの方は倉本さんの研究に言及していないというのはどういうことであろうか。
 
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR