『太平記』(160)

5月28日(日)晴れ

 建武3年(1336)4月末、足利尊氏は大宰府を発ち、5月1日に秋の厳島明神に到着、3日間参篭した。その結願の日、都から持明院統の光厳院の院宣がもたらされた〔『太平記』本文には、後伏見院が崩御の前に下された院宣とあるが、歴史的事実としては光厳院である。もっとも院宣がもたらされたのは、もっと以前のことだとされている〕。備後鞆の浦(広島県福山市)で軍勢の手分けをした足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は摂津兵庫まで退却した。後醍醐天皇は義貞を応援すべく、楠正成に兵庫下向を命じた。死を覚悟して兵庫へ下る正成は、途中、桜井の宿で嫡子正行に遺訓した。兵庫で正成を迎えた義貞は、足利の大軍と一戦を交えずに京都まで退却してしまうのは武将としての面目が立たないと語り、正成は兵法を知らない人々の評判を気にする必要はないと言い、お互いの気持ちを打ち明けあって夜を過ごしたのであった。

 翌朝、延元元年(延元は南朝の年号で北朝は建武3年=1336)5月25日、午前8時ごろ、暗い長雨の雲がようやく晴れて(太陰太陽暦で5月は梅雨の季節である)、風と波とがやや収まったちょうどその時に、沖の方に小さく風に漂う船がいえた。朝のうちに漁に出た舟か、海岸沿いの船路をたどる旅の舟かと眺めていると、次第に船の姿が大きくなり、漁船でも旅の船でもないことがわかる。舵を左右へと盛んに操り、楯を垣根のように並べ、櫓を備えて、大旗、小旗を立てた数万の兵船が、追い風に乗って帆を膨らませ、先がかすむほど波が果てしなく広がった中に、14・5里ほどの長さにわたって浪間が見えないほど密集して、こぎ進んでくる。それぞれの船が擦れ合うほど船首・船尾を並べているので、海上が突然陸地になり、船の帆陰に隠れて対岸の紀州の山も見えない。魏と呉が天下を争った赤壁の戦いや、元が宋を滅ぼした黄河の戦いの時の兵船の数もこれ以上ではなかったのではないかと、目を驚かして見ているところに、鹿嶋岡(神戸市長田区鹿松町)、鵯越(ひよどりごえ=神戸市兵庫区から北区一帯の地)、須磨の上野(神戸市須磨区の須磨寺=上野山福祥寺のある山)の一帯から、足利の二引両の紋、宇多源氏佐々木の四つ目の紋、片折違(かたすじかい)の紋、宇都宮・小山・結城の巴の紋、高氏の寄懸り輪違の紋を記した旗が6・700本風に吹かれて宙に舞いながら、その旗の多さによって知られる大軍の到来を知らせている。

 海上の兵、陸地の軍勢、予期していたよりもはるかに多く、噂をさらに上回るものであったので、宮方の兵は、三日他の軍勢の少ないのを改めて思い出し、戦う前から戦意を喪失してしまったのであった。とはいうものの義貞も正成も、大敵を見ると闘志を増し、小敵を見ても決して侮らないという後漢の初代皇帝である光武帝の精神を体得している勇者であったから、士気を失う様子はまったくなく、まず和田の岬の小松原(神戸市兵庫区和田岬の松林)に兵を進めて、静かに軍勢の手分けを行ったのであった。

 義貞の弟である脇屋義助を一方の大将として、一族23人、その配下の5千余騎を和田岬の近くの平清盛が築いた人工の島である経の島に配置する。新田一族の大館氏明が一族16人、3千余騎を率いて、これも平清盛が経の島の築造工事で死んだ人々を弔うために建立した燈籠堂の南の浜に控える。また一方には楠正成が、思うところあって自前の兵だけで700余騎、湊川(神戸市兵庫区湊川町)の西の宿に陣を張って、陸地の敵を迎え撃とうとする。総大将として新田義貞が2万余騎を率い、和田岬に陣幕を引いてそこを本営と定める。

 そうこうするうちに、海上の船が帆を下ろして磯近く漕ぎ寄せ、これに呼応して陸地の軍勢も旗を靡かせて進撃を開始する。遼仁たがいに攻め寄せて、兄である尊氏の率いる海上の兵船から太鼓を鳴らして、鬨の声を挙げれば、弟である直義の率いる陸の搦め手50万騎が、それを受け取って声を合わせて唱和する。その声が3度になったので、宮方の兵5万余騎も楯の板、矢を入れる箙を叩いて鬨を作る。敵味方の鬨の声が、南は淡路の絵島(兵庫県淡路市岩屋にある島で、月の名所として知られる)、鳴門海峡の奥、西は播磨路、須磨の板屋戸(神戸市須磨区板宿町の辺り)、東は摂津国生田の森(神戸市中央区生田神社の周辺)、四方三百里に響き渡って、天を支える綱である天維、大地の軸である坤軸も砕け傾くかと思われたのであった。〔1里を約4キロと定めたのはこの時代よりも後のことであるが、それにしても300里は誇張が過ぎる。『太平記』よりも少し前にイタリアで書かれた『神曲』の宇宙観はプトレマイオスの天動説に従ったもので、少なくとも地球が丸いということは認識しているのだから、時代遅れということで両者を同一視はできない。〕

 足利・新田の両軍がにらみ合いながら、まだ戦端を開かないときに、新田方の本間孫四郎重氏という武士が、黄色がかった河原毛(朽ち葉色を帯びた白毛で、たてがみと尾が黒)の太ってたくましい馬に乗り、紅色の縅の革を下に行くほど濃く染めた鎧を着て、ただ一騎で、和田岬の波打ち際に出て、打ち寄せる波が馬の蹄を浸すほど前に出て、敵の様子をうかがっていた。
 この本間孫四郎というのは既に第13巻に登場し、出雲の塩冶高貞のもとから後醍醐天皇に献上された竜馬を見事に乗りこなしたという武士である。相模の国の、現在の神奈川県厚木市に住んでいた。
 すると一羽のミサゴ(海辺などに住むタカ科の鳥)が波をかすめて飛んでいったかと思うと、海中に潜り2尺余りの魚を1匹つかんで沖の方に飛んでいくのが見えた。弓の腕に自信のあった重氏は、重大な戦いを前に、このミサゴを射て自分の腕を敵味方の人々に見せてやろうと思った。
 当時の武士は矢を箙という入れ物に差していたが、その表側には2本の鏑矢を差す習わしであった。その鏑矢のうちの1本を抜き出して、自分の二所籐という2箇所ずつ一定の間をおいて籐をまいた大弓につがえて鳥の様子をうかがうと、その間にミサゴは波の上6・7百町(1町は約109メートル)ほども遠くを飛んでいる。そこで重氏は海の中に馬を乗り入れて追いながら、飛んで行く鳥を射た。鳥を殺すまでもない、命は助けてやろうと思ったのであろうか、鏑矢はミサゴの片方の翼の付け根を射切った。そして鏑矢は周防の豪族である大内弘幸の軍船の帆柱に、一揺れして突き刺さった。ミサゴは魚をつかみながら、尊氏の御座船の右手に並んでいた大友の船の屋形の上に落ちて、片翼をなくした鳥は慌てふためいて走り回っている。

 本間はこれを見て大声をあげて叫ぶ:「将軍が筑紫よりご上洛とのことで、定めて、尾道の遊女たちを多く同行させていらっしゃるでしょう。そのためにお肴を進上する次第でございます。」 敵・味方、陸・海の上からよく射たものだ、凄い腕前だとと称賛する声がしきりである。尊氏はこの様子を知って、敵の武士が自分の腕前を見せようとして射た鳥が、味方の船の上に落ちてきたのは吉祥である。ともあれ、この見事な腕前の持ち主は何者か、名前を知りたいものだ」と仰せになった。そこで、そばにいた小早川七郎(桓武平氏土肥の一族で安芸・備後の武士)が「比類なき腕前を披露されたことよ。さても御名字を何とおっしゃるのであろうか。承りたいものだ」と呼びかける。
 本間は、馬を渚の砂の上に引き上げ、弓を杖代わりにして、「大したものではないので、名字を申し上げても、誰もご存じないでしょう。とはいえ、弓矢をとっては坂東八か国の中に名を知る人もいらっしゃるかもしれません。この矢でご覧ください」と、五人がかりで張る強い弓に、十五束三伏の長い矢をつがえて、尊氏の紋である二引両の旗を立てた舟を目指して放つ。その矢は、海の上5・6町を通り越して、尊氏の船の隣の備前の佐々木一族である佐々木信胤の船端を矢竹がこすって、そのまま上に飛んで、屋形の外に立っている兵の鎧の草摺りの裏に突き刺さった。
 重氏が弓の名手ぶりを見せる場面であるが、ミサゴを射た時の7・8町(約800メートル)とか、今回の5・6町とかいうのは誇張も甚だしい。大学に務めていたころ、弓道部の練習風景を時々見るともなく見ていたので、弓がどの程度の距離を飛ぶのかはある程度分かっているつもりである。(そういえば、私が担任した学生には弓道部というのはいなくて、アーチェリー部というのが2人いた。) それから、重氏がもったいぶって名を名乗らないのはあまり好ましい態度ではない。このときの重氏の態度は、その後の彼の運命に影を落とすが、それはまた後の話である。
 重氏の腕前の披露を自分たちへの挑戦と見た足利方は代表者を選んで遠矢を射返すことになり、いかにも『太平記』的な物語が展開する。それがどのようなものかは、次回に譲ることにする。
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