倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』

5月24日(水)晴れのち曇り

 5月21日、倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)を読む。

 倉本さんは、その著書をこのブログでも取り上げたことがあるが、藤原道長の日記『御堂関白記』や、道長時代に天皇と公卿たちの間の連絡調整の任を果たした能吏にして能書家の藤原行成の日記『権記』、道長の権勢に阿らず是々非々の態度を貫いて『賢右府』と呼ばれた藤原(小野宮)実資の日記『小右記』の口語訳や、これらの史料に基づいた研究で知られる日本古代政治史、子機六額の研究家である。壬申の乱についての研究業績があるとはいえ、倭国が成立した時代から平安時代の末までの対外戦争を概観する書物を書いたことには、意外な気持ちを抱かされた。

 「はじめに 倭国日本と対外戦争」という書き出しの部分で強調され、その後本文でも何度か繰り返されているのは(倭国→日本は戦争を(ほとんど)しなかった国」であり、戦争の経験は乏しく、もっとはっきり言えば下手であるという主張である。しかしその一方で倭国と朝鮮半島の諸国の関係以来、蓄積されてきた帝国観念が近代におけるアジア侵略に影響を及ぼしていることも間違いないという。倭国が成立して以来、刀伊の入寇に至る対外紛争の歴史を実証的にたどることで、これらの問題に取り組むというのが著者の意図である。

 この書物の構成は次のようになっている:
 はじめに 倭国・日本と対外戦争
第1章 高句麗好太王との戦い 4~5世紀
 1 北東アジア世界と朝鮮三国
 2 百済からの救援要請
 3 高句麗との戦い
 4 倭の五王の要求
第2章 『任那』をめぐる争い 6~7世紀
 1 百済の伽耶進出
 2 新羅の伽耶侵攻
 3 「任那の調」の要求
第3章 白村江の戦 対唐・新羅戦争 7世紀
 1 激動の北東アジア情勢
 2 新羅との角逐と遣隋使
 3 唐帝国の成立と「内乱の周期」
 4 白村江の戦
 5 「戦後」処理と律令国家の成立
第4章 藤原仲麻呂の新羅出兵計画 8世紀
 1 「新羅の調」と律令国家
 2 新羅出兵計画
第5章 「敵国」としての新羅・高麗 9~10世紀
 1 「敵国」新羅
 2 新羅の入寇
 3 高麗来寇の噂
第6章 刀伊の入寇 11世紀
 1 刀伊の入寇
 2 京都の公卿の対応
終章  戦争の日本史
 1 蒙古襲来 13世紀
 2 秀吉の朝鮮侵攻 16世紀
 3 戦争の日本史――近代日本の奥底に流れるもの
 おわりに

 一見して分かるように、最も重点を置いて論じられているのは白村江の戦いである。著者が繰り返し強調しているように、前近代の倭国→日本が実施に海外に派兵して戦争した例は5世紀の対高句麗戦、7世紀の白村江の戦、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮侵攻の3回だけであり、特に中国と戦争した経験は後の2回だけである(秀吉の侵攻は、この書物の主な関心の外にある)。その後の北東アジアの勢力関係が白村江の戦によって決まったといっても過言ではないので、これは当然のことであろう。

 第1章では初期倭王権の対外関係を、石上神宮(奈良県天理市)に伝わる七支刀の銘と高句麗好太王碑(中国吉林省集安市に現存)の銘から推定している。
 北東アジア世界で最初に政治的成長を遂げたのは中国の東北地方から朝鮮半島北部に影響力を持つ高句麗で、北方のツングース系民族である貊(はく)族を主体としていた。中国から朝鮮半島に進出してきた勢力と戦いつつ、半島の南にある百済との抗争に注力するようになった。その百済は4世紀に馬韓を統一して成立し、4世紀後半の近肖古王の時代に勢力を拡大し、高句麗との抗争を続けた。高句麗に対抗するために中国の南朝の東晋に朝貢して冊封を受け、一歩上伽耶諸国と結び、さらに倭国に接近した。356年には朝鮮半島南東部の辰韓を新羅が統一した。朝鮮半島南東部は農業などの生産性が低く、地理的にも中国との交渉に不便で、高句麗に従属せざるをえなかった。なお、朝鮮半島南部の弁韓(弁辰)は統一されないまま、伽耶ショックとして小国が分立市た。それは小盆地がそれぞれ独立した地形を形成しているという地理的理由とともに、この地域が鉄資源に恵まれていたからである。朝鮮半島や倭国はこの地域の鉄生産に依拠していただけでなく、倭国の対半島交渉の中継地でもあった。
 4世紀の後半に倭国と百済との間に王権レベルでの通交が生じる。そのことを示すのが七支刀の銘である。高句麗に対して軍事的に劣勢にあった百済は倭国に軍事援助を求めて接近したと考えられる。「これまで本格的に国家間の交渉というものを知らなかった倭王権は、百済からの誘いに一も二もなく乗せられてしまった…。そしてそれが、今日まで続く半島と我が国との関係の出発点となったのである。」(28ページ)
 好太王碑の碑文を解読すると、391年以来、百済の要請を受けて倭国の軍は都会し、共同の軍事行動をとって新羅に攻め入り、400年には新羅・伽耶戦線で、404年には百済北部の帯方界戦線で、いずれも高句麗と戦って大敗したことが推定できる。敗戦の原因は重装歩兵を中心とした倭国軍に対し、組織的な騎兵を繰り出した高句麗が戦力的に勝っていたことによるものと考えられる。またこの敗戦を機に百済との同盟意識、新羅への敵対意識が生まれたこともその後の展開に大きな影響を及ぼした。

 5世紀の倭の五王時代になると、倭国は中国に朝貢して冊封を受けるとともに、新羅や伽耶諸国に対する軍事指揮権を獲得し、実際には軍隊は派遣しなかったものの、自分たちの「天下」の中に朝鮮半島諸国が含まれるという意識が後世まで残ることになったのである。
 次回は第2章、第3章の内容を検討することにしたい。
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