『太平記』(159)

5月21日(日)晴れ、気温上昇

 建武3年(1336)4月末、都を追われて九州で再起を図っていた足利尊氏・直義兄弟は播磨の赤松円心の勧めで、大宰府を発った。途中、安芸の厳島明神に参篭、その結願の日に、都からかねて待ち望んでいた光厳院の院宣がもたらされた(これは歴史的な事実ではなく、院宣を得たのはもっと早い時期であったとされている)。備後鞆の浦(現在の広島県福山市)で軍勢の手分けを行った足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は摂津兵庫まで退却した。ここで尊氏・直義の軍が合流するのを待ち受けて、一戦交えようという腹積もりである。
 この知らせを受けた後醍醐天皇は楠正成に兵庫に向かって義貞を助けるように命じた。正成は足利方の大軍を防ぎとめることは難しいので、再び天皇が比叡山に行幸されて、都を足利方に明け渡し、正成と義貞がゲリラ戦で足利方を苦しめ、形勢を逆転することを進言するが、この提案は退けられた。正成は死を覚悟して兵庫に向かうのであった。

 正成はこれが自分の最後だと思っていたので、長男である正行が11歳になって、父親のお供をしようとついて来たのを、桜井の宿(大阪府三島郡島本町桜井)で自分の本拠地である河内の金剛山に送り返すことにした。そして泣きながら、庭訓(父が子に与える教訓)を言い渡す。「獅子は、子どもを産んで3日経つと、はるかに高い岩のがけから、母親が子どもを投げる。投げられた獅子の子に獅子としての資質があれば、途中で身を翻して飛び上がって、死なないという。(今、自分は獅子の親が子どもを崖の下に投げるように、子どもの器量を試すべき時に来ている。獅子の場合は、生まれてから3日目であるが)おまえは既に10歳を超えている。いろいろなことがわかる年頃だと思うので、私のいうことをしっかり覚えていて、それを間違えず実行してほしい。
 今回の兵庫での戦いは天下分け目の合戦だと思うので、この世でお前の顔を見るのもこれが最後だと思う。正成がすでに戦死したという情報が広がれば、天下は必ず将軍(足利尊氏)のものとなるだろう。そうなったとしても、当座の命を助かるために、楠一族の長年の忠節を捨てて、武家方に降参するという不義のふるまいをするということがあってはならない。一族郎党のものが1人でも生き残っているうちは、楠一族の本拠地である金剛山に立て籠もり、敵が押し寄せてくれば、命を経偉人にさらして、名を後世に残すべきである。それこそがおまえの親孝行と思うべきである」と涙をぬぐいながら言い含め、父親は兵庫の戦場へ、息子は河内の金剛山へと別れていったのである。その様子を見守っていた人たちは、心猛々しい武士であっても、父子の心中を推し量って、鎧の袖を濡らさないものはなかった。
 この逸話は昔の教科書などに記されて、大きな影響力を持った。もう60年ほど前に死んだ私の伯母が、動物園でライオンの親子を見て、「獅子は万仞の石壁より、母これを投ぐれば」というけれども、実際にライオンを見ると、母親が子どもをとてもかわいがっていると言っていたのを思い出す。とはいっても、ネコ科の動物は高いところから落ちても、体勢を立て直してけがをせずに済ませることができるというから、この話もまったく嘘ではない。なお、正成・正行父子の桜井の宿での別れを歌った「青葉繫れる桜井の」という歌は、小津安二郎の映画『彼岸花』に出てくるので、私の耳に残っている。

 『太平記』の作者はこの後、秦の丞相であった百里奚が息子である孟明視が出陣する際に、自分は老齢であるので息子が帰還するころにはもう会えないだろうと言って泣いたという話を引き合いに出して、正成・正行親子の父子二代にわたる忠義を称賛する言葉を記しているのだが、自分の知識をひけらかしているだけで、却って、感動を薄めているのではないかという気がしないでもない。

 このような次第で、楠正成は兵庫に到着する。新田義貞はすぐに正成と対面して、後醍醐天皇のご意向がどのようなものかを訪ねた。正成は、自分の考えと、天皇のお言いつけの内容を詳しく語った。義貞は、(正成の都をいったん去って足利方に明け渡したうえで、ゲリラ戦で苦しめて、その士気をそいでいくという正成の戦術について理解を示しながら)、「このたびの戦で不利な立場に立った少数の軍勢で、勢いに乗った敵の大軍と戦おうとするのは、無理が多いというのは承知しているが、昨年、箱根・竹下の合戦で敗北し、そのまま都に落ち延びて、途中で敵を防ぎとめることができなかったことで、世の人々の嘲りを避けることができなかった。それだけでなく、このたび西国に派遣されて、敵の数か所の城の一か所も陥落させることができないうちに、敵の大軍の襲来を聞いて、一戦も交えず、京都までの長い道のりを逃げてしまったのでは、あまりにふがいないと思われるので、勝敗を度外視して、この一戦で忠義のほどを示そうと考えるばかりだ」という。

 正成は、「愚かな大勢のものが言い立てる意見は、一人の賢人の言葉に劣る」という言葉もありますから、兵法を知らない人々のそしりを必ずしも気に掛ける必要はありません。ただ戦うべきところを知って進み、退くべきところを見て退くのをよい大将というわけですから、「暴虎馮河して、死すとも悔いなからん者には与せじ(虎に素手で向かったり大河を徒歩で渡ったりして、死んでも後悔しないような無謀な者とは、行動をともにすべきではない/論語・述而)と孔子もその弟子である子路を戒めたものです。義貞様にあっては、元弘の初めに北条高時を鎌倉で滅ぼし、今年の春は、尊氏卿を九州に敗走させたこと、天皇の聖運とは言いながら、やはり貴殿の武士としての徳によるものではないかと思われませんか。合戦のやり方については誰も非難しません。さらにこのたび西国から京都に退却されていること、その戦術、いちいち合戦の道理にかなっていると思われます」と語る。
 この言葉を聞いて、義貞は顔色が明るくなり、二人で夜を徹して語り合ったのであった。「貴殿の言われることを聞いていると、義貞の武勲も、一概に軽くは見られていないのは、私にとって励みになることだ」と言い、その夜は数杯の酒を飲み交わしたのであった(本来ならば、もっと飲みたいところだったのだろうが、明日は合戦と思うと控えなければならない・・・というのが、両者の気持ちが酒飲みには余計によくわかる箇所である)。
 武士の面目を気にする義貞と、現実主義者の正成という性格の違いがある一方で、義貞は戦いで敗れた後のことを気にしているのに対し、正成はこの一戦に死を覚悟しているというまったく逆の内心の動きも知られる箇所である。治承・寿永の源平の争乱の際にも重要な戦場となった兵庫で、一戦交えるというのは義貞らしい決断ではあるが、勝機を見出すのはかなり難しい。狭い地形の中では軍勢の多寡よりも、士気や指揮官の戦術が物をいう可能性が高いが、そうはいっても、彼我の軍勢の差が大きすぎるのである。 
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