夏目漱石『虞美人草』(3)

5月15日(月)曇り

 今回は12から15までを取り上げ、第4回で16から19までを取り上げて、4回でまとめようと思っていたのだが、書くことが増えてきたので、これまでのあらすじに加えて、12だけでとめておくことにする。

これまでのあらすじ
 甲野藤尾(24)は外交官であった父親が急死して、腹違いの兄欽吾(27)と母親の3人で暮らしている。遠縁にあたる宗近一(28)とは父親同士で結婚の約束があるような、ないような関係であるが、伝統的な価値観の持ち主で行動的な一があまり気に入らない。藤尾はその宗近よりも、英語の家庭教師をしてもらっている文学士の小野清三(27)に惹かれている。小野は詩人でもあり、気の弱いところがあるが、それを彼女は優しさと受け取っているようである。彼は卒業に際して銀時計をもらった秀才で博士論文を執筆中である。ところが彼は以前に井上孤堂という老学者に世話になっており、その孤堂先生が京都の家を引き払って上京してくるという。先生の一人娘である小夜子(21)のことが心配で、早く小野さんと結婚させたい様子である。
 欽吾は一と2人で気晴らしに京都に旅行に出かけるが、一は宿の隣に住む琴を弾く娘が気になる。嵐山に花見に出かけた時にも、東京に帰る汽車の中でも2人は娘とその父親らしい老人を見かける。新橋駅に着いた2人は、小野さんとすれ違う。上京してきた孤堂先生と小夜子を小野さんが出迎えたのであった。
 一と欽吾、藤尾と一の妹の糸子(22)の4人は、当時上野公園で開かれていた博覧会に出かけ、そこで小野さんが孤堂先生と小夜子を案内している姿を見る。

12
  孤堂先生と小夜子を博覧会に案内した翌日、小野さんは下宿で思案している。この章は小野さんの詩と人生についての思案から始まるが、さらにその前に「貧に誇る風流」(187ページ)である発句(俳句)についての作者自身の議論から書き出されている。俳句革新の旗手であった子規は言うまでもなく漱石の親友である。小野さんは「これを卑しとする」(同上)という。「ひとくぎりの文章を俳句をひねるように苦心して書きついでいった」(422ページ、桶谷秀昭の解説)小説の登場人物としては不遜な態度である。
 小野さんは詩人として創作に励むのには金が要ると思う。「――文明の詩は金にある。小野さんは詩人の本分を完うするために金を得ねばならぬ。それだけでなく、孤堂先生の世話をするためにも金は必要である。「金は藤尾と結婚せねば出来ぬ。結婚が一日早く成立すれば、一日早く孤堂先生の世話が思うようにできる。」(189ページ)という論理を小野さんはめぐらす。

 こうして小野さんが孤堂先生の世話のために、しばらくご無沙汰していた甲野の家に出かけようと腰を上げると、下宿に小夜子がやってきて、所帯道具をそろえるために勧工場(明治・大正時代に多くの商店が組合を作り、1つの建物の中に種々の商品を陳列して販売したところ。百貨店の発達により衰えた)に出かけたいが、一緒に来てくれないかという。小野さんは必要なものは自分が勝ってそろえると言って、小夜子を返す。そして、甲野の家に出かける。この場面で、下宿屋の下女が小野さんと小夜子の関係について勝手に想像をめぐらしている様子、また、小夜子のすらりとした姿の描写などが目に留まる。

 一方、藤尾は自分のプライドにかけて、小野に前夜の行動を釈明させようと待ち構えている。
 「我が立てば、虚栄の市にわが命さえ屠(ほふ)る。逆しまに天国を辞して奈落の暗きに落つるセータンの耳を切る地獄の風は割れ(プライド)! 我!と叫ぶ。」(199ページ)
 前回、サッカレーの『虚栄の市』について書いたが、ここで漱石が「虚栄の市」と書いているのは、ジョン・バニヤン(John Bunyan, 1628-1688)の『天路歴程』(Pilgrim's Progress)に出てくる「空の市」を念頭に置いていると考えられる。ただし、新教出版社版の『天路歴程』の翻訳者である池谷敏雄が注記しているように、「この空は空しいものの意で、虚栄という意味ではない」(池谷訳、前掲、167ページの頭注)。ついでに言うと、サッカレーの『虚栄の市』についても、この指摘は当てはまる。(要するにVanity Fairを「虚栄の市」と訳すのは誤訳であって、誰がこの誤訳を定着させたかは比較文学史上興味深い問題ではある)。
 それから、「セータン(サタン)の耳を切る地獄の風」というのは、ジョン・ミルトン(John Milton, 1608-74)の『失楽園』(Paradise Lost)を想起させるが、これに相当する箇所はないはずである。要するに、漱石が『天路歴程』と『失楽園』をヒントにして、藤尾の虚栄とプライドに根差す嫉妬心を描いていると考えてよかろう。
 そこへ、兄(甲野さん)がやっていて2人で前夜のことを話すうちに、父親の形見の金時計(子どものころから藤尾がおもちゃにしていて、それを与えられる男性が藤尾と結婚するという暗黙の了解ができている)は自分がこれと決めた人に渡すと宣言する。甲野さんは外出しようとして、小野に出会い、前夜彼らが小野たちを見かけたという。
 藤尾の母は甲野家の財産を実子ではない長男の欽吾(甲野さん)が譲ると主張しているのを、あくまでもらわないと主張して、しかも1日も早くもらってしまう方策を考えているのだが、思案に暮れて藤尾の部屋を覗く。藤尾が前夜、小野と小夜子の姿を見て嫉妬に狂っているとは知らないまま平凡な会話を交わす。前回も触れたように、藤尾が宗近君を嫌い、小野さんに好意を寄せるのは、小野さんが詩人で、宗近君が実際的な人間だからであるが、母親は小野さんは将来有望な秀才で、宗近君は外交官試験に落第してばかりいる(実際は1回しか落ちていない)のらくら者だから、小野さんの方が好ましいと考える。結論は同じでも、そこへ行く思考の過程が全く違っている。そこに悲劇が根差している。
 小野さんがしばらく顔を見せないことについて、「あの人と喧嘩でもしたのかい」「小野さんに喧嘩が出来るもんですか」「そうさ、ただ教えてもらやしまいし、相当の礼をしているんだから」(213ページ)という会話の食い違いなど、このあたりのことをよく示している。

 藤尾に会った小野さんは、甲野さんから藤尾たちが前夜博覧会に出かけていたことを聞いていたので、そのことを言いだしはじめると、藤尾は何も知らないふりをして、小野さんがここ数日こなかったのは恩師の世話であることを聞きだし、彼と一緒にいたのが恩師の令嬢であるという事情も相手には説明させずに探り当ててしまう。そして、小野さんの出方によっては宗近君の方に近づく可能性があると仄めかす。

 石崎徹さんのブログで、『虞美人草』の人間関係を『赤と黒』の人間関係と重ねて論じられていたのには、そういう見方もできるのかと考えさせられた。『虞美人草』の登場人物は、現実的な存在というよりも理念を体現した存在という性格が強い中で、小野さんだけが現実にいそうなタイプの人間に描かれている。実際、漱石の教え子の中に、小野さんのモデルだと言われた人物がいたという話を読んだこともある。今回、ちょっと言及した『天路歴程』は登場人物がすべて、その名前の通りの理念の体現者であるという物語で、リアリズムとは縁の遠い話であるが、漱石がどんな気持ちでこの作品を読んでいたかと想像してみるのも面白い。

 黒川創『漱石と鷗外のあいだで』を読んで考えたことについて書く余裕がなくなってしまったが、一つだけ書いておくと、経済的な余裕がなければ詩はできないという小野さんの考えに、漱石は批判的な口ぶりであるが、鴎外は翻訳に取り組む場合に「明窓浄机で、気を落ち着けて遣らねば、ろくな訳が出来はしない」(黒川、100ページ)と書いている。一般論という形ではあるが、ある程度の生活の安定がないと文学的な創造はできないという考えていた点では、漱石と対照的であるかもしれない。(実際は、漱石も金のことを気にしながら創作をしていたわけではあるが…)

 「日記抄(5月7日~13日)」で予告したことの半分も書けないうちに、今回のブログを閉じることになってしまった。かき切れなかったことについては、またおいおい補っていくつもりである。 
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虞美人草 ふたたび

 たいへん面白く読ませていただきました。「虞美人草」を再読したくなりました。
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