『太平記』(158)

5月14日(日)曇りのち晴れ間が広がる

 建武3年(1336、この年2月に「延元」と改元されたはずであるが、『太平記』の作者は旧年号を使い続けている)4月末に、宮方の攻撃を支えることができず、九州に落ち延び、そこで武士たちの支持を得て再起を図ろうとした足利尊氏は大宰府を発ち、安芸の厳島明神に参篭。結願の日、都から光厳院の院宣がもたらされた。(歴史的事実としては、尊氏が持明院統の院宣を得たのはもっと早い時期のことであり、厳島明神と院宣を結びつけたところに作者の足利方への配慮が感じられる。もっとも、足利氏は源氏であり、厳島神社は本来平家の守り神である。) 備後鞆の浦で軍勢の手分けをした足利軍は、尊氏が海路から、直義が陸路から東上した。5月15日、直義軍が備中福山城を落とすと、義貞は戦線を縮小して敵の大軍に有効に対処しようと摂津兵庫まで退却した。後醍醐天皇は楠正成に兵庫で義貞を支援するように命じた。これに対して正成は朝廷が都を放棄して、再び比叡山に立て籠もり、都に戻った足利軍を南北からゲリラ戦で苦しめて弱らせるという戦術を提言する。

 この正成の提言をもっともだとお考えになった後醍醐天皇は公卿たちに今後の戦術について協議させる。岩波文庫版の『太平記』が底本としているのは西洞院本であるが、この個所は『太平記』の様々な写本によって記述が異なる。なお、公卿たちの会議には天皇・摂政・関白は出席しない習わしであるが、建武新政時代にこの習わしが続いていたかどうかはわからない(私が知らないだけで、研究した人はいるのではないかと思う)。

 公卿たちの会議の後で、天皇が重ねて仰せられたのは、「朝敵を征伐するために、その印の刀を拝領して征伐に向かう将軍が、まだ本格的に戦っていないうちに、朝廷が都を捨てて、1年のうちに2度まで地方に行幸されるということでは、天皇の地位が軽いということがあからさまになってしまう。また官軍としての面目を失うことにいなる。尊氏がたとえ九州の軍勢を率いて上洛してきたと言っても、昨年の春、関東の8か国の軍勢を率いて上洛してきた時の勢いには及ばないであろう。戦いの始めから、敵軍の敗北の時にいたるまで、味方は小勢であったが、毎度敵を服従させないことはなかった。〔これは何度か書いてきたように、そのとおりである。しかし、今回は足利方は持明院統の院宣を得て、大義名分を獲得して戦いに臨んできている。〕 「これ武略の勝れたるにあらず。」(第3分冊、63ページ、武士の立てた戦略が優れていたからではない。)ということであった。これは正成が述べたことを真っ向から否定するものである。さらにそれに加えて、「ただ聖運の天に叶へる事の致す処なれば、何の子細かあるべき。ただ時を替へず罷り下るべし」(同上、ひとえに、帝(私)の運が天命にかなっていたための勝利なので、このたびの戦いにも何の支障があろう。即刻、罷り下るべきである)と仰せになった。〔足利方と持明院統の連携が成立し、足利方の士気が奮い立っていることに気付いていない様子である。〕

 正成が誠意をもって申し上げた献策が真っ向から否定されたのである。岩波文庫版の脚注によると、これを諸卿僉議の際の坊門清忠の発言とする異本もあるそうである。清忠は後醍醐天皇の近臣で、『太平記』第12巻では鎌倉幕府滅亡後も信貴山に留まって武装を解除していなかった護良親王に、後醍醐天皇の命を受けて僧籍に戻るように説得に出かけている。どちらにしても、もう少し言いようがあっただろうと思う。「聖運が天に叶」っているのであれば、正成を差し向けるのではなく、自分自身が出かけたらどうだと言いたくもなる。少なくとも、正成に対し、何か一言、あるいは褒賞の約束をして送り出すべきではなかったか。(あるいは実際にはそうだったけれども、『太平記』の作者がわざと書き落としたということもありうる。)

 自分の献策を全面的に否定された正成は、「この上は、さのみ異儀を申すには及ばず。且は恐れあり。さては、大敵を欺き虐げ、勝軍を全くせんとの智謀、叡慮にてはなく、ただ無弐の戦士を大軍に充てられんとばかりの仰せなれば、討ち死にせよとの勅定ござんなれ。義を重んじ。死を顧みぬは、忠臣勇士の存ずる処なり」(第3分冊、63ページ、これは敬語が使われていないので、正成の心の中の言葉と考えるべきである:この上は、むやみに異論を申し上げることはない。そうはいっても、一方では恐れが残る。大敵を策をもって懲らしめ、勝利を確実なものにするという謀は、天皇のお考えには無く、ひとえに忠義無類の武士を大敵に向かわせようとの仰せなので、つまるところは戦死せよという勅命であろう。義を重んじ、死を顧みないのは忠臣勇士の本懐とするところだ」と述べて、その日のうちに正成は500余騎の兵を率いて都を発ち、兵庫へと向かっていった。
 この言葉には一方でこれまで自分を引き立ててくれた天皇に対する恩義に報いようという気持ちと、その気持ちから発する自分の勝利のための戦術が用いられないこと、公卿たちの机上の空論に基づく自分への出動命令の思慮のなさに対しての怒りが交錯している。お公家さんたちの空理空論に死をもって抗議しようというのである。正成が戦死してしまえば(事実そのとおりになるのだが)、お公家さんたちは再び比叡山に逃れることになる。(だから初めから逃れておけばよかったと思っても後の祭りである。) 自分の将来についての割り切った気持ちと、朝廷や世の中の将来についての複雑な気持ちの両方が交錯する中で、正成は兵庫に向かう。
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