学校教育のなすべきこと

5月11日(木)晴れのち曇り

 5月9日の『朝日新聞』のコラム「経済気象台」は遼という執筆者による「天才・異能の戦略的育成」を提言していた。日本のこれまでの教育は、全体の学力を上げるということでは成果を上げてきたが、少数の天才や異能の人物の才能を伸ばすという点では後れを取ってきた。国家の教育政策として、もっと英才教育に力を入れるべきだというような議論である。反対ではないが、慎重であるべきだというのが私の意見である。わが横浜市では市立のサイエンス・フロンティア高校を設立するなど、英才教育の取り組みをしているが、その一方で原発事故の自主避難者の子どもに対するいじめ事件などが起きている。どちらを重視すべきかといえば、後者ではないかと思うのである。

 まず、天才とか、英才とかいうことの定義をはっきりさせる必要がある。さらにそれが教育や学校とどのようにかかわっているのかも問題である。
 学生時代に、尾崎雄二郎先生の中国語中級の授業の受講者一同が、先生を囲んでコンパをしたことがある(要するに単位をくださいとお願いしたのである)。そのときに、先生が、「大学の教授なんてものに天才はいないものですよ」というようなことを言われたのを記憶している。そのときは、理解できなかったが、今になると、先生が言われたことの意味が分かるような気がする。
 個人的な経験を押し広げて議論するのは危険ではあるが、私がこの世に生を受けて70余年。幸か不幸か天才といえるような人物に出会ったことはない。生まれつき優秀で、努力を重ねて、優れた業績を挙げた、あるいは社会的に高い地位に就いたというような友人・知人は少なからずいて、なかにはノーベル賞の候補だというのさえ含まれるが、天才だとは思わない。偉大な人物でも、身近に接していると、却ってその偉大さが分かりにくいものだと言われるが、それとも違う。偉大なのはわかっているが、その偉大さは天才ではなくて、大部分が努力だと思うからである。

 もちろん、努力は無限ではない。生まれつきの素質というものがある。英語ではgifted and talentedという言い方をして、giftedというのは生まれつき知性の点で優れていること、talentedというのは生まれつきその他の点で優れていることだそうである。遼さんが「天才・異能」というのはたぶん、このことを念頭に置いているのであろう。しかし、以上に述べた私の実感からすると、遼さんが言っているのは、秀才にその秀才ぶりにふさわしい環境を与えろという程度のことでしかない。天才というのはそういう尺度を超えた人間である。天才というのは、生まれつきのものである。大学は学校の一種であり、学校というのは多かれ少なかれ、規格品としての人材を生み出すところである。天才は規格品ではない。だから大学を含む学校に天才を生み出すという役割を期待すべきではない。その先生にしても然りである。(かのビル・ゲイツはハーヴァード大学を中退したではないか!!)

 だからと言って、青少年に潜在する素質を発掘し、それを伸ばそうとする努力が無駄だというつもりはない。しかし、ことは慎重を要する。英才と英才教育の概念をどのように考えるかという問題につづいて、ジョン・スチュアート・ミルとか、ノーバート・ウィーナーとか、子どものころから英才教育を受けたという個人の実例は少なからずあるし、アメリカの国家防衛教育法(1958)における英才教育の強調とか、旧ソ連や社会主義国における英才教育の実践の歴史などの先例もあるから、そういう例をもっと学ぶということが必要であろう。手元に詳しい資料がないから確かな事は言えないのだが、ウィーナーはあまりにも年少で大学に入学したために、大学での同輩とパーティーに出かけるというようなことはできず、家に帰って自分と同年齢の子どもと遊んで過ごしたという話を読んだことがある。大学(学校)は勉強するだけのところではなく、大学における社会生活も大事なのである。(遼さんは「飛び級」をもっと認めろという議論であり、私はそれに反対ではないが、あまり極端に強調するのはよくないという例を述べたつもりである。)

 学問研究にしても、芸術創造にしても社会的なものである。非ユークリッド幾何学の創始者の1人であるロシアのロバチェフスキー(1792-1856)は、カザン大学の教授どころか学長にまでなったが、「かんじんの三十数年を費やした非ユークリッド幾何学の方では完全に無視されて、ときには満場の失笑を買って、一生を終えてしまった」(足立恒雄『無限の果てに何があるか 現代数学への招待』、91ページ)という。1人のロバチェフスキーを生み出すことも大事だが、彼の業績を理解できる大学人を育てることも大事ではなかったのか。

 と、書いたところで、昔読んだ本の中からの次のような抜書きを見つけた。フランソワ・ヴィエト(1540-1603)は二次方程式の解の公式を見出したのであるが:
ヴィエトのような人がいると、普通の人の能力が上がります。国民の知的なレベルが上がれば、もちろん、国力も上がります。そのようなことを成し遂げた人を天才といいます。何かの能力があるだけで、人の能力を上げられない人は、ただの優れた人で天才ではありません。(柳谷晃『数学はなぜ生まれたのか?』、62ページ)
 天才についてのこのような定義もある。

 ということで、英才教育の教育政策における優先順位を引き上げるべきだという主張にはあまり賛同できない理由を述べたつもりである。それよりもっといじめ問題の解決に取り組むべきである。

 

 
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